(あかんなあ…)
つつがなく進められる授業に違和感を覚える理由も、普段なら退屈とは無縁のはずの学園生活が今日に限ってつまらない理由も、全てはわかりきっている。
「若先生!」
例によって平和だった講義が終わるとすぐに教室を出て行った同年の教師を追って呼び止める。すると数メートル先で歩みを止めたその横顔は何故か不機嫌そのものだった。講義には一切反映させないのは流石としか言いようがないけれど、仮にも教え子である志摩に対してその顔はないだろう。
「…なにか?」
「えー…と」
「なにかご用ですか」
「えっ、と…奥村くん、お兄さんのほう、どないしはったんですか?」
今日学校にも塾にも来てはりませんでしたよね?
恐る恐る尋ねれば案の定、不機嫌の理由をずばり突いてしまったのだろう表情が一瞬にしてびきっと凍る。
「兄さんなら、部屋で寝てますけど。何か用事でも?」
公私混同甚だしい教師は普段なら「奥村くん」呼びを貫くはずがこれみよがしに「兄さん」と強調してみせる。
大人げないなあ、と思うもすぐに所詮は同い年なのだと思い至った。
「はあ…もし体調でも悪いんやったら事やなあと…」
「心配しなくても兄さんなら大丈夫です、ただの風邪ですから」
「風邪?あの奥村くんが?」
とっさに鬼の撹乱という諺が浮かぶ。さすがに馬鹿だとは思っていないし燐とて人の子、風邪くらい引くだろうとわかっていても、だ。
「ええ全くです。健康だけが取り柄のくせにね」
にこりと笑う雪男の方がよっぽど悪魔の如く見えてきて、志摩はそれ以上の追及はせずに大人しくその場を逃れたのだった。
*
それから十分もしないうち、志摩は奥村燐奥村雪男両名の住む旧寮の部屋の前に立っていた。
「来てみたはええけど…」
入ってもいいものだろうか。ブラコンも極めたりという雪男のあのような態度から察するに、大したことはないのだろうとは思う。愛する兄が苦しんでいるとあれば平気で授業放棄くらいしそうである。
「…寝とったら帰ろ」
誰に告げるでもなくひとりごちて、ドアノブを回す。雪男が鍵を締めて出ただろうかという懸念も杞憂だったようで、いとも簡単にドアは開いた。
お邪魔します、と申し訳程度に声を掛け、足音を忍ばせて部屋へ進むと直ぐさま目に入ってきたのはベッドに横たわる燐の姿。
「…、…ま、寝とりますよね」
少々顔は赤いようだけれど、寝顔を見る限りそう熱があるわけでもなさそうだ。
肩透かしというか、何と言うか。
寝ていたら帰ろうとは言ったものの実際相成ってみるとあどけない寝顔はどうにもこうにも可愛らしくて名残惜しい。
少々の逡巡の末、ベッド際に引き寄せた椅子に腰を落ち着けた。
そうして眺めていた折、薄く開いた燐の唇からふと微かな音が漏れる。
「……、ま…」
「え?」
「し…ま、…」
「!…奥村くん?起こしてしもた?」
確かに「しま」と呼ばれたのを聞いて顔を覗き込むと、うっすら開いた瞼の隙間からコバルトの瞳が見えた。案外人の気配に聡いのだろうかとじっと見つめていると、焦点の合っていなかった瞳が途端に見開かれる。
「!奥村く…?」
「っなんでいんだよ!」
些か過剰ともとれる反応に戸惑いつつも口を開いた志摩の語尾に重なった怒号。
「っ…んで、……っ、出てけ!」
「え?」
「出てけよ!!」
「ちょ…、落ち着き、…!」
叫んだことで頭に血が上ったのかよろめいた燐の身体を支えようと伸ばした手も渾身で振り払われる。
どうしたというのか、熱があるにしても志摩を志摩と認識しているようだし一体何が燐の琴線に触れたのか全くわからない。
「出てけよ…!触んなっ」
「どうしたんよ、俺やって、わからん?」
「誰でもいいっ、出てけ!」
「こんな奥村くんひとり残して出て行けるわけないやろ?ええから落ち着き、何もせえへんから」
諭すように語りかけても燐はただ出ていけと繰り返すばかりで会話にもならなかった。
「…っ、だめなんだよ…、こんな…っ」
「何がだめなん?風邪引いたかて迷惑やなんて思わんよ?」
「ちがう、俺は…、弱くない…!」
「?…せや、奥村くんは弱ないで?」
そんなことは誰に言い聞かせるまでもなくわかっている。けれど志摩の言葉にも再びちがう、と譫言のように返すだけで真意は計り知れない。
「だめなんだ、…っ、誰にも、……弱みなんか見せたら…」
「!…弱みって、な」
「っだめなんだよ…!俺はひとりなんだ、味方なんかいない誰も信じない…っ!」
「!な、なに言うてん…っ」
「弱みなんか見せたらだめなんだ…っ、お願いだから出てってくれ…、もうやなんだよ…いつだれになにをされるか、びくびくしながら…なんて…」
自尊心なんて安っぽいものじゃない。
一体、彼は今までどんな環境を生きてきたのだろう。自分以外のすべてが敵だと言うその異常なまでの警戒心を有するまでに、どれだけの敵意を向けられてきたのだろう。
いつも気丈に振る舞う彼の闇に思いがけず触れてしまったような気がしてひどく胸が締め付けられ、こんなになっても涙を見せない燐に、自分の方が泣きたくなった。いっそ泣いてほしかった。
「…あほやなあ、奥村くん」
泣けばいい。叫べばいい。
助けて、と言えば助けてくれる仲間が今はもういくらでもいるじゃないか。いつまで彼は「そこ」にいるつもりだ。
「おまえになにがわかんだよ!魔神の落胤ってだけでどこのだれかもわかんねえ奴らに四六時中狙われて、殺されそうになったことだって…っ」
まくし立てたせいか燐がげほっと大きく咽ぶ。背中を摩ろうと伸ばした手もすげなく叩き落とされた。けれど懲りずに手を伸ばせば、燐は身体を強張らせて志摩を見た。不安と恐怖、煩悶、色んな感情がごちゃまぜになって揺れる碧瞳はそのくせひどく美しかった。
「なん、だよ…っ」
「難しいことわからんけど、奥村くんが俺のことも敵やて思とるんは辛い。俺は弱み見せられたらうれしいし弱っとるんやったら守ったりたい」
それでも、彼はひとりだと言うのだろうか。
燐を守りたいという人達を、それでも彼は敵だというのだろうか。
だとしたら、彼らにとっても、燐にとってもなんて悲しく辛いことだろうと志摩は思う。信じてもらえない。信じられない。
そんなに酷いことはない。
「…うそ、だ」
「うそて、ひどいわ」
「だって、俺は…ずっと…っ」
後に続く言葉なんて想像するに容易い。
だからこそ、そんなことをわざわざ言わせたくはなくて。
つい、口を塞いでいた。
「!…っ、……ん、く」
「…、風邪、うつってもうたかな」
悪戯っぽく笑んで見せれば、燐の頑なだった瞳にうっすらと涙の膜が張った。
たったそれだけのことを嬉しく思う。
「っ…しま、…」
「んー?」
「しま、ぁ…っ」
「うん、ええよ」
泣いたってええ、叫んだってええ、助けて言うたって困らへん。
すべての許しを一言に篭められたかどうかは定かでないけれど、燐が志摩の胸で泣いてくれたのだからそれでいいのだと思う。
しゃくりあげる度に揺れる背中が愛おしかった。濡れる胸元の重みが恋しかった。
*
泣き疲れて志摩の腕の中で眠ってしまった燐を名残惜しく布団に寝かせて部屋を出る。
「…――兄さんは?」
「!!?わ、若先生、いはったんですか」
扉の横に凭れかかっていた雪男が身体をゆらりと起こして志摩に問うその顔はとても教師のものとは思えない。
「あ…と、奥村くんなら、寝てまいましたけど…」
「…そう」
ふっ、と一瞬だけ安堵に緩んだ表情を見て、なんだか初めて目の前の人物がまだ自分と同じ年の子供なのだと実感できたような気がした。兄を心配する弟、というより弟を心配する兄のようなそれ。
きっと自分は金造や柔造をそんな風に心配することなんてできないなと、この兄弟が少しだけ羨ましくもあった。
「…ありがとうございます、志摩くん」
「へ?」
「僕には、できませんでした」
なにが、とは言わなかった。問わなかった。
「え…、いや、そんなん」
そんなことを言われても正直自分が燐のためになにをしたわけでもできたわけでもない。志摩自身が満足しただけ、言ってしまえばただの自己満足だった。お礼を言われる方が忍びないくらいである。
「…それに関しては感謝してますが」
「えっ?」
「金輪際、寝ている兄さんには近付かないでくださいね」
「はい!?」
さきほどまでの殊勝な態度は一体どこへ。
にっこりと隙のない笑顔を浮かべる彼はどうしたって、重度のブラコン以外の何物でもなかった。
(ありがとな)
(さあ何のことやろね)
(ぶはっ、おまえいい男だなー)
Fin
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遅くなってしまってすみませんでした!><リクエストに沿えているのか不安ですが、こんなものでよろしければお持ち帰りくださいませ。書き直しも受け付けてます!
奈央さま、素敵なリクエストありがとうございました!
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