||Void


ある夜のことだった。同棲している彼氏の待つ家に帰った私は、扉を開けた瞬間に立ち込めた臭いに眉を寄せた。

「・・・なに、この臭い」

錆びた鉄のようなそれに、酷く噎せ返る。なにか嫌な予感がして、慎重に奥へと進んだ。玄関からすぐのリビングに人影はない。キッチンにも、トイレにも。そうなってしまうと、この狭いアパートで残されているのは、奥にある狭い寝室のみ。

「・・・・・・蓮二?」

恋人の名を呼んだ。奥をのぞく。人の気配はない。私は入口で立ち止まり、部屋の中をのぞきこむようにした。

「・・・誰もいな・・・「綾乃」、ッ!?」

聞きなれた声。しかしいつもとは違う、低く禍々しい意の込められた声だった。普段であればその声に違和感をもつことはないのに、今日は違った。恐る恐る、振り返る。そこには予想したとおり、蓮二が立っていた。それも、ずいぶんと廃れた様子で。

「れん、じ・・・?」

視界に映ったものに声を引き攣らせる。彼の右手に握り締められているのは、鈍く銀に輝く包丁。その切っ先を力強く包み込むようにして、蓮二の真っ赤になった右手があった。暗くよどんだ瞳は私をしっかりと映すが、そこに生気は定かではない。
ふらりと、彼が一歩踏み出す。その瞬間、先程の臭いがきつく立ち込めた。そうか、これは、彼の血の。

「・・・っ、」

彼が進むたびに、私も共に一歩ずつ後ずさった。その度に蓮二の顔が歪む。どうして逃げるのかと、どうして離れるのかと訴えられている気がした。しかしそんな表情をされればされるほど、私は彼への恐怖がどんどんと増していった。

「蓮、二」

引き攣った声。部屋の角まで追い詰められ、もう逃げ場はない。少しずつ彼との距離が縮まっていく。

「綾乃」
「・・・な、に」
「最近、帰りが遅いな」
「・・・それは・・・・・・」
「また職場の先輩か?それは俺よりも大切なことなのか?綾乃には俺がいらなくなったのか?」
「違・・・」
「違う?違わないだろう?今日もずいぶんと楽しそうに笑っていたじゃないか」

つばを飲む。ごくりと、音をたてて唾液が喉を通っていった。一歩後ずされば、ガタ、と音を立てて棚にぶつかった。蓮二はそれに薄ら笑みを浮かべる。寒気がした。

「綾乃は俺だけのものだ。それ以外はお前には必要ない。綾乃は俺だけの中に存在すれば良いんだ。俺だけに、俺だけに愛されれば」

蓮二の笑みが深まった。彼が一歩踏み出す度に、全身が危険信号を鳴らす。蓮二がすぐそばで歩みを止めた。ゆらりと、彼の片腕があがる。包丁を握り締める彼の右腕が。

「れん、「綾乃」」

彼の声を聞いた直後、どす、という重たい衝動が身体を襲った気がした。でも、私を抱き締める彼の温もりが前みたいに暖かくて、それに少しだけ安心した。もう一度彼の名前を呼ぼうと唇を開ける。けれどただ小刻みに震えるだけで、上手く言葉が言えなかった。

「れ・・・、ん、じ、」
「愛してる」
「ぁ・・・・・・」

ぐぅ、と腹部に熱いものがこみ上げた。同時に蓮二の抱き締める力も強まる。急速に薄れ始めた意識の端で、彼がたしかに幸せそうに笑っていた。


Void


私たちの愛は、これで終わり?
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Voidは虚空という意味です。
リクエストありがとうございました!

2012/9/6 repiero (No,66)


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