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『もう引っ越してっちゃうなんて・・・・・・残念だねぇ』
『すみません、仕事の都合で』
『いや、良いんだよ。大木さんは家賃もきっちり払ってくれてたしねぇ。・・・・・・それじゃあ、元気でね』
『はい、お元気で。・・・・・・お世話になりました』

数日前の記憶である。この前精市さんと会ってから、ちょうど1週間が経つ頃だったか。私は住んでいたアパートを引越し、別のアパートに移り住むことになった。大家には面倒だから「仕事の都合」と言っておいたが、実際はそんなご大層なものではない。ただの逃避である。
私は逃げたのだ。精市さんから。

「いやぁーっ、まさか希が引っ越してくるなんてねー!」

例の居酒屋で、友達が赤ら顔で笑いながら言った。相変わらずこの子はお酒に弱い。さ二、三杯飲んだだけでこの様子なのだから、友人としてはもう止めておきたいところなのだけれど。彼女はまだまだ飲むつもりらしく、へらへらと笑いながらジョッキを握りしめていた。

「隣のかっこいー人が引っ越してったから、ちょっと残念だったんだけど、希で良かったよー」
「・・・・・・ちょうどひとつ部屋が空くって聞いたからね」

私はこの酔っ払いに軽く笑ってみせ、ふ、と息を吐いた。私が引越し先に選んだアパートは空き部屋をふたつ抱えていて、その内ひとつには先日まで人――友達曰く、かっこいい人だったらしい――が住んでいたのだが、別のアパートへ越していってしまったのだそうだ。私はその話をこの友人に聞きつけ、引越しを決意したのであった。相変わらずもう一つの空き部屋は住人募集中らしいが、その方が私にとっては静かで都合が良い。おまけに隣人として、この仲良しの友達を迎えることができたのは幸運だろう。

「でもさー、なんでまた引っ越したのー?まだ半年も経ってないよねー」
「それは・・・・・・、別に。気分かな」
「ふぅん? まっ、嬉しいから良いけどさー・・・・・・あ、おじさんおかわりー!」

奔放な彼女にため息をついて、私は自分の杯にそそがれたビールを飲んだ。ぼうっとした視線を居酒屋の明かりに向けながら、おつまみを一口食べる。お酒による快楽と惰性が、身体を重たく感じさせている。

「ふっふふふ、今日は飲むぞぉー」
「やめときなさい。私は休みだから良いけど、あんた明日出勤なんでしょう?」
「えー、うん、そうだけどぉ・・・・・・」
「今度またいくらでも付き合ってあげるから」
「・・・・・・希がそう言うならー」

友達は少し不満げに唇を尖らせ、しかし杯に残った酒を一気に煽るとまた上機嫌に笑った。ふらりと立ち上がる肩を支え、レジへ向かう。会計金額にため息をつき、ちらりと隣を見ると、友達の姿がない。慌てて姿を探せば、先に店外へ出てしまっている。戻ってくる気配はない。・・・・・・財布から、諭吉が消えた。
会計を済ませて外に出ると、雨が降っていた。友達は軒下で立ち止まって、ぼうっとそれを見つめていた。新居はこの居酒屋からそう遠くないが、濡れてしまうことは免れなさそうだ。帰るよ、と声をかけると間延びした返事が返ってきて、私はその肩を支えて店を離れた。容赦なく降り注ぐ冷えた雨が、酔いを冷ますようで気持ち良かった。

(帰ったらまた、今まで通りの朝が来る)

誰もいない部屋で迎える、静かで何もない朝が。精市さんには引っ越し先など伝えていないし、きっともう、訪ねてくることもなくなるだろう。
それで良いのかと、頭の中で誰かが問う。それで良いんだと、振り払うように答えた。自問自答するくらいには迷っていた彼のことなのに、あっさりした別れだったなと思った。きっとその内忘れて、いなくなる。

「じゃあ、また今度。お風呂で寝ないように」
「あははっ、寝ないよぉ! またねー」

ひらひらと手を降って、友達はひとつ隣の部屋に消えた。私も自分の部屋に入ろうとして・・・・・・はた、と。足が止まった。

「希さん」

視線の先には、彼がいた。

「・・・・・・精市さん」
「やぁ、こんばんは」

精市さんは綺麗な笑みを浮かべてこちらを見ていた。私はそれを見つめ返す。サァァという雨の音が、気まずさを浮き彫りにしているようだった。

「・・・入れてもらって良いかい?」
「あ・・・・・・」

私は少し逡巡して、結局、うなずいた。部屋に入っていく彼を見つめながら、私はぼんやりとまた、逃げ道を探していた。

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