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◇
【希side】
『・・・・・・ねぇ、希さん』
『はい』
『希さんは、好きな人とかいないの?』
『・・・・・・・・・・・・』
『俺はね、いるよ。好きな人』
『・・・・・・そう、ですか』
鍵を返して、逃げるようにその場を去って。ひとり帰り道を歩きながら、思い出すのは先ほどの会話だった。精市さんは帰り際にそんなことを言い残して、寂しそうに笑って、帰って行った。私の部屋に鍵をおいて。
よりによって鍵なんてものを忘れていくから、まだ遠くまで行っていない内に届けなくてはと思って、家を出た。彼の住んでいるアパートの方へ、鍵を持って走って行った。
(・・・・・・あれが彼の、好きな人なんだろうか)
どうにも彼が好きになるような女性には見えなかったが、きっと良い人なのだろう。そう見えないのはたぶん、私の思いが歪んでいるからだ。
「・・・・・・いた」
「精市さん」
聞こえてきた声に振り返れば、精市さんが肩で息をしながらこちらを見つめていた。月明かりに照らされて彼の青色が輝いて、美しかった。
「先程の方は良いのですか」
自嘲気味に笑いながら尋ねれば、彼は悲しそうな顔をした。悲しそうな顔でこちらに歩み寄って、そっと私の頬に指を触れさせた。私はじっと彼の瞳を見つめ返す。そうして一歩、彼から離れた。行き場をなくした彼の大きな手は、握りしめられて小さくなった。
「さっきの奴は、彼女でも好きな人でもなんでもないよ。一方的に付きまとわれてるだけだ」
「どうでしょうね。気を・・・・・・「俺には!」、」
精市さんは急に声を張り上げて、真摯に私を見つめて、・・・悲しそうな顔で、言った。
「俺には、好きな人がいるから」
今までに見たことのないくらい、真剣な顔だった。私は自分が無意識に彼を疑っていたことに気が付き、それに気まずくなって軽く俯いた。それから顔をあげて、彼を見る。唇を動かす。
「そうですか」
それはあくまでいつも通りに、何もおかしなことなどなかったかのように。
「・・・・・・希さん」
「おやすみなさい、精市さん。・・・・・・もう、忘れ物しないでくださいね。それでは、また」
一礼をすると、精市さんは何か言おうと唇を動かしたあと、苦い顔をしておやすみとだけ小さく漏らした。微笑み、踵を返して去って行く。それを見送り、私も同じく踵を返す。お互い背を向けて、反対方向に歩き出す。
好きな人はいないのかと聞かれたとき、なにか心のなかで思い当たるものがあった。
精市さんが女の人といたとき、なにか心のなかで騒ぐものがあった。
好きな人がいると言われたとき、なにか心のなかで悲しむものがあった。
「・・・・・・私、は」
初めての感情と戸惑いに唇を噛んで、首を振った。見上げた空で、黄金色がこちらを静かに見つめ返していた。
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