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「それじゃあ、俺はこれで」

彼女の家を出ると、途端に冷たい風が身を震わせた。自然と歩みが早まる。空を見上げると、藍色に無数の白い輝きが散りばめられていて光っていた。ぼんやりと浮かぶ月は雲に隠されては現れ、その光を怪しく揺らしていた。

「あっ、精市ぃ!」

とある、曲がり角で。
角を曲がった途端、どこかで聞いたような甲高い声に呼び止められた。反射的に顔を上げ、相手とばっちりと目を合わせてしまってから、俺は顔を上げたことを後悔した。・・・・・・いつぞやの女Aである。
何度でも言うが、俺は女Aとはよくて「知り合い」であり、馴れ馴れしく名前を呼ばれるような関係ではない。もっと言えば俺はこいつの名前を知らない。一方通行のお知り合いである。

「会えて良かったぁ、この前は走ってどっか行っちゃったんだもぉん」
「・・・・・・」
「でもまたこうして会えたってゆうことは・・・・・・たぶん運命だよねぇっ」

きゃあーっ!なんて叫ぶ女A。これだから嫌いなんだよ、こいつ。近寄ってくる女は山ほどいるが、ここまで酷い例はなかなかいない。妄想癖でもあるのだろうか?いや、聞くまでもなくあるだろう。そうでもなければ、ここまでイタイ発言が出てくるはずもないのだから。

「・・・・・・あのさぁ」
「えっ、なあに?」
「お前、いい加減しつこいよ。我慢して言わなかったけど、お前は俺の何なワケ?彼女でなければ友達でもないし、っていうか俺お前に名前教えたっけ?教えてないよね。俺もお前の名前知らないし。そういう相手に馴れ馴れしく名前呼ばれるとどういう気分になるかわからない?あ、わかんないか。見るからに馬鹿だもんね、お前。 不快になるんだよ、それも酷く。ってわけでさあ、迷惑だからこれ以上俺に付きまとうのやめてくんない?あ、拒否権はないから。次近付いてきたら問答無用で警察呼ぶからね、わかった?わかったらその阿呆みたいに開いた口閉じて回れ右して今すぐ帰れ。もう一回言うよ、帰れ。俺に近づくな。じゃあ三秒以内に・・・「ちょっ、ちょっと待ってよぉ!」・・・・・・なに?」

溜まった鬱憤を晴らすように思っていたことすべてを言葉にすると、ようやく女Aが我に返って声をあげた。うるさい金切り声だ。ちなみに、これが初めてのちゃんとした会話である。

「いきなり、そんなこと言われてもわかんないよぉ、精市ぃっ」

女Aは俺の手を掴み、目に涙をためて上目遣いでそう言った。全く可愛くない。それを冷たい目で見下ろすと、少しびくっとして俯いた。低い声で離せよ、と呟けば、慌てたように離される。自分でもわかるほどに苛々していた。せっかく希さんのところで良い気分になってきたのに――、

「あ・・・・・・」

はた、と。
何気なく振り返って、そこに立ち尽くしていた人物と目が合った。平たい生気のこもった瞳は、今は少し、驚きと悲しみに見開かれて、それでも、まっすぐにこちらを見ていた。

「お取込み中でしたか」

希さんはあくまで、落ち着いたようにそう言った。見開いた目を伏せて、こちらに歩み寄って、俺の手に、何かを握らせて離れた。

「忘れ物です」

彼女はそれだけ言って、ふ、と息を吐き出した。握らされた鍵と彼女とを交互に見て、俺はあ、と嗚咽に近い声を漏らす。

「それでは・・・・・・、失礼しました」

最後は丁寧に一礼をして、希さんは静かにその場を去っていった。残されたのは、呆然とする俺と、迷惑女のふたりきり。彼女が持っていたせいで暖かくなった鍵が、妙に寂しさを思わせた。

「ねぇ、精市ぃ、今の女だれぇ?」

不満げな声が後ろから聞こえる。俺は僅かに身をかえしてそちらを鋭くにらんだ。

「なに。まだいたの?」
「・・・・・・っ、」

さすがに怖くなったのか、女Aはびくりと震えたあと怯えるように走っていなくなった。

(・・・・・・誤解、されたかも)

希さんのいなくなった角を見つめて、俺は小さく唇をかむ。受け取った鍵を握りしめて、見え隠れする月を見上げて、――気づけば、走り出していた。

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