||彼岸


※途中、生々しい表現を含みます。R指定はかけませんが、ご注意を。



「今夜、来ませんか?」

誰しも、こえてはいけないラインというものを持っているものだと思う。人それぞれ、基準は十人十色、緩かったり厳しかったり、そのラインは様々。でも必ず、人は自分の中でラインを作る。この先をこえてはならない、という道しるべを。

仕事終わりの帰り道、いつも方向が同じだからと一緒に帰っている女性社員が、別れ際にしていた他愛もない話のついでに、そんなことを言った。今夜来ませんか、なんていう、どこにとはとても聞けない誘い文句を。
自分にとって彼女はただの同僚で、会社の中だけで言えば、多少話す機会が多かったり仲が良かったりするだけのオトモダチであった。一人暮らしで寂しいんです、とか彼氏がほしくて、とか、思えばこのことを匂わすような発現は多々あったが、お友達はお友達。それに俺が気付いていようがいまいが、返事は変わらないわけである。

「あぁ、今日は……」

用事があるから、とかなんとか。適当に誤魔化して、ハイさようなら。彼女も寂しそうに笑っていなくなった。それに少し申し訳ないな、とか、思ったり、思わなかったり。

「付き合ってもないのに」

物事は段階を踏むべきである、というのは何度恋愛を経験しても変わらず思うことだ。たぶん、死ぬまで引きずると思う。引きずらざるを得ないのだ。

『今夜来ませんか、だそうです』

ふと思い立って、学生時代から交流のある先輩にそんなLINEを送ると、しばらくして既読がついた。曰く、「何がだよ」とのこと。

『これから飲みませんか? いつもの場所で』

送ると、すぐに既読。わかった、という短い返事があった。
一応自宅方向へとのんびり歩いていた足を止め、Uターンして急ぎ足で店へと向かった。夜の明かりがキラキラしていた。





「遅いぞ長太郎」
「すみません、宍戸さん! お久しぶりです」
「おう、久しぶり。元気にしてたみてぇだな」

先輩はにかっと笑って、カウンター席の方へ手招きした。隣に腰かけると、すぐにウーロン茶が出てくる。宍戸さんは俺が飲めないこととつまみはあまり食べないことを知っていて、先に注文をしてくれていたようだ。

「で、なんだよ。さっきのLINE」
「あぁ……いや、ただ先輩を誘う口実みたいなものですよ」
「どうせ女にでも言われたんだろ?」
「あはは……まあ、そうなりますね」

杯を仰ぎながら、宍戸さんは相変わらずモテやがって、と苦々しげにつぶやいた。そういう彼にはもう4年も付き合っている彼女がいて、近々プロポーズする予定だということは知っていた。幸せなんだろう。いつ会っても、宍戸さんからはどことなく楽しげな雰囲気が感じ取れる。
そんなことを考えていると、ふと宍戸さんが口を開いた。

「長太郎はモテるけどよぉ」
「はい?」
「おまえ、彼女はいねぇだろ。いつも告白とか誘いとか断って、たまに付き合ったと思えば1年経たずに別れてるし」

その通りである。俺が何も言わずに黙っていると、宍戸さんは手元にあった枝豆を一房とって俺に渡した。食え、ということらしい。嫌いではないので、ゆっくりとそれを食べた。

「俺も勘違いしてる人間の一人かもしれねぇけど、お前、誤解されやすいよな。主に恋愛方面で」
「……はは」
「変に女に優しいからだろうけど……その歳になって彼女もいないなんて、激ダサだぜ」
「激ダサ、ですか。……宍戸さんが言うなら、きっとそうなんでしょうね」

ウーロン茶を口に含むと、ほんのりとした苦味が喉をすり抜けていった。疲れからかぼうっとした思考と体には、その冷たさだけが際立って感じられる。

「ま、早く良いやつ見つけろってことだ。そしたら俺にも紹介しろよ」
「宍戸さんこそ。俺、式楽しみにしてるんですから」
「ばっ……、そ、それはお前、まだ決まったわけじゃねぇだろ」
「プロポーズ、待ってると思いますけどね」
「うっ」

言葉を詰まらせ、思い切り目をそらした宍戸さんに笑って、今日はありがとうございました、と言って立ち上がった。宍戸さんも立ち上がって、レジへと向かっていく。俺が払います、と言って札を2枚出すと、おう、という短い返事のあと、財布に札2枚をねじ込まれた。驚いて宍戸さんを見ると、黙って先輩におごらせとけよ、と笑って言ってくれた。
いつ会っても、やさしい先輩だと思った。





「……ッ、く」

帰宅した後、ずっと前に誰かから「使え」と渡されたAVを見て、久しぶりに自慰をした。仕事が忙しくなってからは自ずと離れていた行為だったが、今日はどうもそんな気分だった。
AVのパッケージをぼうっと眺めながら、ふとあの誘いを思い出した。今夜来ませんか、なんていう、たぶんかなりの勇気を出して言ってくれたあのセリフ。
快楽を得るという点だけで言ってしまえば、自慰もセックスも同じようなものなのだ。そこに他の感情や理性が入り混じって「No」という答えになったわけだが、実際、誘いに応じても良かったといえば良かったわけである。
軽くなったティッシュボックスを蹴飛ばして、ベッドで横になりながらそんな今更を考えた。たぶん彼女はもう誘ってこないだろう。一緒に帰ることもなくなるかもしれない。……思えばいつも、帰宅は彼女から誘ってもらっていた。

(けっこう、好きだったんだけどな。あの時間)

会社から彼女のアパートまでの10分間。本当は毎日、仕事が終わるたびに彼女の帰宅の誘いをほんの少し楽しみにしていた。それもきっと、明日からはなくなる。

(……今夜、来ませんか)

何度も繰り返し思い出す言葉を、無理やり、「こえてはいけないライン」の向こう側に押し込めて目を閉じた。明日になれば全部終わることだ。
そう思うと、息苦しかった。





「鳳さん。今日も帰り、良いですか?」
「えっ?」

翌日、仕事を終えて、まるで昨日のことなどなかったかのように言ってきた彼女に、思わず目を丸くした。あ、あぁ、はい、なんて少ししどろもどろに返して、いつも通り、荷物を持って立ち上がる。いつも通りに、彼女の隣を歩いて退社していく。

「今日も、疲れましたね」
「あぁ、はい。とても」

いつも交わしていたような他愛のない会話も、今日はどうしてか特別なもののように感じる。終わったと思っていた10分間だったのに、またこうして、当たり前のように続くとは。

「あの……鳳さん」
「はい」
「昨日、すみませんでした。突然変なこと言っちゃって」
「……気にしないでください」

笑うと、彼女も笑ってくれた。優しい微笑みだ。

「それで……なんですけど、鳳さん」
「はい」
「私、あなたが好きです。……付き合って、くれませんか?」

"今夜、来ませんか。"そう言ったときと同じ表情で、彼女は俺の目をまっすぐに見つめてそう言った。「こえてはいけないライン」を思い出させた彼女の言葉は、ひどく純粋に、俺の心をのぞきこんでくる。
たぶん、昨日の、誘いを受ける前の自分なら、この告白を断っていただろう。でも今は違う。

「……はい、もちろん」

言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。良かった、なんていう唇は柔らかく弧を描いて、魅惑的に艶めいている。





到着したアパートの前で、冗談めかして「今夜来ませんか?」なんて笑う彼女に、ドキリと、心臓が高鳴ったような気がした。
――――――――――――
久しぶりの短編です。短編詐欺とばかりの長文。
ちょたもすすろてっぱいも久しぶりで、キャラがぶれぶれ。その内直します。

2014/5/29 repiero (No,145)

[6/11]
[prev/next]

[一覧に戻る]
[しおりを挟む]

[comment]
[back]


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -