||煙管


「紳士でもタバコ吸うんだ」

似合わないね。
言って、私はその眼鏡の奥の瞳をじっと見つめた。切れ長の目が穏やかにこちらを見つめ返している。紙巻煙草の火をすり消す仕草はこなれていて、彼がもう何度もその動作を繰り返してきたのであろうことを教えてくれる。彼は言葉の代わりに少しだけ微笑んだ。私に言うことなど何もないということだろうか。その態度に腹が立って、ここ禁煙だよと棘のある声で嘯いてみる。我ながらいかにも迷惑そうな、不満げな声色だ。彼はただ愛想ばかりの笑みを浮かべた。
私が彼に「紳士」という言葉を使ったのは、それが彼のあだ名だというのの他に、強い皮肉を込めていたからだ。中学から大学までずっと友達を続けてきた私にとって、名前を呼ぶことは容易い。いつも通り呼んでやればきっと優しい返事が来ることだろう。でもわざわざ紳士、なんて厄介な言い方をしたのは彼がその響きを嫌っているのを知っていたからだった。

『見た目と、うわべの態度だけを見てつけられたあだ名は嫌いなんです』

中学のときに聞いた言葉だ。比呂士はそう言うけれど、本質そのものだって皆の言う紳士に親しいのだから仕方ないと思う。多少なりと悪い心は彼にだってあるものの、普通の人間から見れば大分優しい方だ。
たぶん、悔しさ。決め付けられたくないという思春期特有の気難しさも加わって、彼にそんな言葉を言わしめたのだろう。

「タバコ、いつから?」

禁煙と言われたからか私に気を遣ったからなのか、比呂士は煙草を吸うのをやめてこちらを見つめていた。すっと細められた目が思案するように横を向いて、7ヶ月前、と正直そうに答えを放った。思った以上に長いその数字に息を呑む。頭の中で順々に遡ってみれば、7ヶ月前というのは彼が20歳の誕生日を迎えたばかりの頃と一致する。つまり、と彼の横顔を盗み見て私は深くため息をこぼした。比呂士に煙草を促したであろう人間に目星はつくが、何故よりによって煙草なんて。
中学、高校、大学と年を重ねるごとに人が変わってしまうのは仕方ない。だから大学生のなった彼が、何かをきっかけにして煙草を吸い始めるのも別に罪ではないと思ってはいる。
でも私の中にあった彼に対する絶対的なものまでもが変わってしまったような気がして、それが嫌だった。わがままと言われてしまえばそれまでだ。

「……まぁ、良いけど」

ただのお友達の私に言えることは何もない。せめてもう少し早く気付けていたら、と悔しさに唇を噛む。
邪魔してごめんね、と部屋をあとにしてチラリと振り返れば、彼がまた煙草を吸い始めているのが見えた。言い表しようのない不快感に襲われる。反面、私を気遣ってくれるだけの紳士らしさがまだ残っていたことに少しだけ安堵した。





その数日後、友人と軽く飲んだ帰りに比呂士を見かけた。たぶん彼も友人たちと飲んでいたんだろう。一人で少しふら付きながら歩いていく背が寂しくて印象的だった。その時は私の方も友人と別れて一人だったから、近くまでと思って彼の背の方に走って行った。お酒の力を借りていつもより高いテンションで名前を呼ぶと、彼がゆらりと振り返る。

「え」

異変にはすぐに気が付いた。

「ちょ、ちょっと……大丈夫?」

青ざめた顔に、焦点の定まらない目。二十歳になってから何度か彼とは酌を交わしているけど、こんな姿は一度だって見たことはない。未海さん、と呼ぶ声は低く掠れて今にも倒れてしまいそうだった。
慌てて彼の身体を支え、近くなった比呂士の整った顔をそっと覗き込んでみる。名前を呼んだということは私の認識はできているんだろうけど、他については随分と怪しい。決して悪酔いする人ではないのに、どうしてここまで。考えていると最近見たばかりの比呂士の喫煙風景を思い出した。彼に煙草を薦めたのも、お酒を飲ませたのも……きっと同じ人、なんだろう。

「すみま、せ」
「良いから。比呂士の家、角のとこだよね?」
「はい」

幸い、ここから彼の家はそう遠くない。支えて歩くには少し重たいが、一人で歩かせるよりは数倍マシだろう。しかし歩くたびに酒ではなく重みで足元がふら付いてしまって、覚束ない比呂士の足取りをさらに不安定にさせてしまう。そのうえ男女であることも相まり、私たちがきっと面白く見えたのだろう。すれ違う人に何度も奇異の目を向けられ、周囲の歩みはこちらが孤独に感じるほど遠巻きだった。
彼の住むアパートに到着してすぐに、それまでは何とか歩けていた比呂士が地面に崩れ落ちてしまった。送り届けたら帰ろうと思っていたのに、これでは家に帰ってからも大分不安だ。名前を呼んでもまともな返事はなかったが、鍵出して、と声をかければ比呂士は緩慢な動きでそれを取り出してくれた。

「なんでこんなになるまで飲んだの、バカ」
「すみま、せ」

引きずるように家の中へ押し込む。はみ出した足を無理矢理曲げさせるとようやく扉が閉まった。しかし彼は玄関でそのまま完全に動かなくなってしまい、思わず呆れたため息が零れた。
手探りで明かりをつけると、彼の整頓された部屋が目に入った。近くまで来たことはあっても実際に部屋に入るのは初めてのことだ。友達と言えど、真面目な彼にとって性別という壁はかなり大きいものだったらしい。以前聞かされた「女性が一人で」というあのたしなめるような言葉は何年か経った今でもよく覚えている。彼がそんな様子だから、きっとこの部屋に入ることは一生ないのだろうと思っていたのに。

(こんな形で、ね)

私を叱りつけた当時の彼に、今の状況を説明したらなんと言うのだろう。煙草に、酒に。彼の考えていた将来とはきっと大きく道を逸らしている。
水を取ってこようかと靴を脱いでいると、彼の大きな手が私の手首を掴んだ。冷えた私にはちょうど良い、暖かい手だ。どうしたのと尋ねれば、ゆっくりと彼の顔があがった。

「すみま、せ」
「……比呂士?」

何に謝っていたんだろう。もう三度も同じ調子で繰り返された言葉も、今度のは意味が至極曖昧だ。一瞬迷い、けれどすぐに一番妥当な答えに落ち着いて「気にしないで」と笑った。彼のことだ、迷惑をかけたことに対して、とかそんなんに違いない。何度も謝る必要はないのに、そういうところは以前とちっとも変わっていない。
彼の手をそっとほどこうとすると、少しだけその不安定な瞳が揺らいだ気がした。でも手はあっさりとほどけてしまい、数歩あるけばすぐに彼が遠くなる。なのにあの寂しげな目はずっと瞼の裏に焼き付いて離れなくて、ずきりと胸が痛んだ。
適当に借りたコップに水道水を入れて、比呂士のそばまでできるだけ急いで戻った。これまでは暗くてわからなかったものの、改めて見ると彼の姿はかなりだらしなく崩れている。ワイシャツはボタンが二つほど外れ、袖口のボタンも止められていない。普段とはまるで正反対の格好だ。だけどそれが少し妖艶な感じを醸していて、無意識に鼓動をはやめた。乱れた髪の隙間からは薄く開いた唇がのぞいている。

「はい、水」

差し出しても受け取る様子がなく、仕方なく私は彼の口元までコップを運んで行った。ゆっくり持ち上げるようにすると少しずつ飲み込んでくれる。何回かに分けてコップの半分ほどを飲むと、もう一度飲ませようとした私の手を彼が制した。
もう水はいらないのかとコップを床に置くと、途端に伸びてきた彼の腕が私を引き寄せた。あ、と声をあげる間もなく比呂士の腕の中に閉じ込められ、気付くと彼の顔が間近にある。先ほど早くなったばかりの鼓動がまたスピードを上げた気がした。なに、と聞くことすら声が震えてしまってうまくいかない。静かな部屋に沈黙が流れていく。一秒、二秒、経つごとに進みが遅くなっているようだ。

「すみま、せ」

四度目。
でも今回ばかりは本当に意味がわからなくて、私は途方に暮れて黙り込んだ。比呂士の大きな手が私の後頭部に添えられる。ぐ、と余計に近くなった距離が怖い。焦って突き放そうとすると、強い力でそれを引き留められる。ずっと友達でいた彼のことを、こんなにも意識してしまったのはこれが初めてだろう。
しばらく動けずにそうしていると、次第に彼の力が緩んでいくのを感じた。よくよく観察してみればさっきから彼の息遣いがよく聞こえる。まさか、と体を少し話してみれば伏せられた長い睫毛が目に入る。どうやら彼は眠ってしまったようだった。

「ここ、玄関ですけど」

腕を抜け出して起こそうとしてみたものの、反応はない。仕方なしに彼の腕を取って引きずろうとしてみたが、完全に意識をなくした彼の身体はぴくりとも動いてはくれなかった。
そして更に悪いことに、比呂士の身体が邪魔になって、外への扉を開けることができないのに気が付いてしまった。こうなると、私はもう彼が起きるまで部屋を出ることもできない。そもそもこんな状態の彼を放っておくのも心配だ。
私は目の前の男を見つめる。先ほどの妙な大人っぽさとは違い、子供のようなあどけない表情で眠ってしまっている。

「……バカ」

捨て台詞みたいに言って、若干荒っぽい動きで置きっぱなしだったコップを引っ掴んだ。蛇口から流れ出す水は自分の家と変わらないのに、やはり落ち着かない。第一私はどこで寝れば良いんだ。着替えだって当然持っていないし、ついでに言えば化粧道具だって必要なものの半分も持ってきていない。あるのは軽いお色直し用の数点だけだ。
とりあえず、と押入れから布団を引っ張り出し、乱暴に比呂士にかけてやる。眼鏡くらいはとってやろうかと手を伸ばしてみたものの、どうしてか手が震えてしまった。でも、軽く引っ張ると眼鏡は簡単に手に収まってしまう。それを靴箱の上にそっとのせて一歩後ろに下がる。綺麗な彼の顔はただ眠っているだけでも妙に絵になって見えた。

「おやすみ、お馬鹿さん」

いつだったか彼の口にしていた言葉を反復する。返事がないことにほんの少し、寂しくなった。
ひとりで見知らぬ部屋に入った私は、薄い布団を一枚借りるとソファに自分の身体を横たえた。それからそのまま眠りにつこうとして、あることを思い出して自分の鞄をあける。取り出した少し大きめの箱を優しく撫ぜて、テーブルに置く。置いた隣には普段彼が使っているのだろう灰皿が並べてあって、それになんだかモヤモヤとした。
明日起きるのはどちらが先だろうか。比呂士はあの様子だし、たぶん私の方が早く起きられるだろう。そしたらこのプレゼントを、ちゃんと本人に渡してやろう。
きっと喜んでくれる筈だ。





自然と目が覚める頃にはもう朝だった。瞼を持ち上げてまず見慣れない景色に驚き、そうしてソファの端に比呂士が座っているのを見てもう一段階驚いた。慌てて体を起こすと彼がおはようございます、とゆったり微笑む。同じようにしておはよう、と返す声は少しだけ震えていたかもしれない。

「え、っと……大丈夫? 頭痛くない?」
「少し。……いえ、そんなことより」

ご迷惑をおかけしてしまって、すみません。
こちらに向かって頭を下げ、まっすぐな声で比呂士が告げる。一瞬固まって、でもすぐに「気にしないで」と笑った。多少言葉は違えど、昨日もやったやり取りだ。
どうやら比呂士は昨夜のことをあまり覚えていないらしく、アパートについた辺りから記憶が途切れてしまっているらしい。それを聞いて半分安心、半分残念な気になった。でも彼があの抱擁を覚えていれば、彼のことだし「距離を置きましょう」とか言いかねない。そう思えばこれで良かったような気もした。
ただあの時以来――と言っても、短時間しか経っていないせいかもしれないが、私は比呂士のことを必要以上に意識してしまっている。ずっと友達として隣にいて、蓋をしてきた感情が鍋の中でまた燻り始めてしまったようだった。今だってそのせいで会話が進まなくて、彼を困らせてしまっている。
しばらく言葉を探して、それから私はふと寝る前においたプレゼントを思い出して声をあげた。テーブルの上にまだ綺麗な状態で置かれている。

「それ、プレゼントなの。あけて?」
「プレゼント、ですか」

ありがとうございます、と首を傾げながら比呂士が笑う。こんな時期に贈り物なんて珍しいから訝しんでいるんだろう。しかしその表情は、包みを開けた途端一変した。

「……これ……」
「うん、煙管。……比呂士に似合うと思って」

以前彼の喫煙する姿を見てから、ずっと渡そうと思って渡せずにいた代物だ。今どきでは珍しくなってしまったが、紙巻煙草よりも体への害が少なく、喫煙量も抑えられるというメリットの多いものなんだそうだ。
彼の煙草については私の中でまだ消化不良物として蟠っているが、それでも彼の選んだ道ならば否定する気はない。お酒についても然りだ。紳士紳士と言っても、いつまでもその名前を周りが押し付けていてはいけないんだろうと思っている。比呂士が普通の範疇で生きている内は、人間本質そのものまで変わってしまうようなその時までは、その考えを曲げる気はない。
これは彼の友達として……それから、彼を特別に想う人間の一人として、私が導き出した答えだった。

「ま、使ってくれなくても良いんだけどさ……。でも比呂士は紙巻煙草、似合わないよ。どうせなら煙管でかっこよく吸えば良いのにーって思って、ね」

笑って、構えてみてよと言って煙管を押し付ける。茶色の本体に銀のくわえ口と吹き口。デザイン自体はそう珍しくないが、比呂士によく似合うことだろう。案の定、彼が煙管がそっとくわえると、もうそれだけで様になってしまっていた。

「……未海さんは、聞かないんですか?」
「ん? 何が?」
「私が何故煙草を吸うのか、です。以前から私を知っている人は皆、必ずと言っていいほどそのことを聞いてきますから」
「あぁ」

確かにそれは気になってはいた。でも、彼が大学になってから「そういう」人たちと知り合いになったことは知っていたし、恐らくその影響なんだろうと勝手に納得してしまっていたのだ。彼がそんなに簡単に影響されるような人ではないとわかっていても、でもそれ以外に理由を見つけられずに、いつもそこで考えを止めていた。
そんなことを彼にそのまま伝えると、比呂士は柔らかく寂しそうに微笑んだ。

「仰る通り、そういう方の影響もあります。ですが一番は――貴女の目を引きたかったんですよ」

にっこりと比呂士が笑みをつくる。寂しそうな雰囲気は変わらず、ただ声色ばかりが凛としていつも通りだ。対する私は、大きく見開いた目を彼から逸らせなくなってしまっている。思いもかけなかった理由に言葉が出なくなってしまう。

「なのに、今までの生き方のせいか喫煙に負い目を感じて貴女に言い出せなかった。そのくせ気が付いてほしくて、煙草を止めることも出来ずに七か月も喫煙を続けてしまいました」
「ちょ、ちょっと待って……私に、って」
「大学に入ってから話す機会が減りましたよね。貴女の方は知りませんが……私はずっと、女性として貴女が好きだったから、気を引きたかったんです」

悪い意味ではなく心臓がざわざわとしてうるさくなる。言葉の意味をゆっくりと理解して次第に、頬に熱が集まっていくのがわかった。

「馬鹿、ですよね。昨日貴女に言われた通りだ」
「え」

なんで覚えてるの。
悪戯っぽい笑みに目を瞬かせ、それからすぐに意味に気が付いて思わずそんなことをこぼした。さっき彼はアパートについて以降を覚えていないと言ったのに、その言葉を覚えているということは、当然、その後も。そこまで考えて脳裏にあの時の暖かさがよみがえり、余計に顔が熱くなるのを感じた。

「煙草は止めます。お酒ももう、悪い飲み方はしません。……だから」
「っ、」
「もう一度、抱きしめても良いですか?」

うなずいたらきっと、もうただの友達には戻れない。
彼の優しい微笑みを見つめながらそんなことを考えて、ぐっと唇を噛んだ。でも今のこの鼓動のはやさは、きっと私だってずっと彼と同じ気持ちでいたからなんだろう。





遠慮がちに、小さくうなずくとゆっくり彼の腕が私の身体に回った。昨日と同じ暖かさに安心してちょっとだけ視界がぼやける。鼻をすする音に比呂士が微かに笑った気がした。
――――――――――――
もっと煙管に関係のある話だった筈なのに、書き終えてみたらまるで別物でした。なんでじゃ!

2015/3/25 repiero (No,152)

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