||透明


またやっちゃった。
そう言って笑って、未海は申し訳なさそうな、けれども嬉しそうな顔をした。刺されたところがじんわりと赤くなって痛い。しばらくそれを見ていると、ぷつりと血が滲んでくる。今日のはまだマシな方だろうか。それでも痛いのには代わりがないから、ティッシュごしに患部を強く抑えて血を止める。少し沁みるのを我慢しつつ水で洗い流すと、血は完全に止まって綺麗になった。そこをゆっくり、愛おしむように彼女の親指の腹が撫ぜていった。
今回は、右腕の付け根だった。

俺の彼女には「跡付け」癖がある。それもつけるのはキスマークなんてお優しいものではなく、生傷だ。情事の時、手を繋いだ時、会話をしている時、その痛みは突然やってくる。首や腕、足、背中、次々場所を変えて小さな跡を幾つも残していくのだ。
蓮二、ごめんね。お決まりの謝罪のことばはもう聞き慣れた。
気にするな。お決まりの返しも、とうの昔に言い慣れてしまった。
彼女のおかげで生傷が絶えない、とは言っても他人に気付かれるようなレベルではない。三日もすれば消えるような傷跡には元より怒りも何もなかった。世に存在する身も凍るような愛の形に比べれば、お互い愛し合えている分、俺たちの関係はまだ普通の範疇だろう。

「蓮二、ごめんね」
「気にするな」

ほら、今もまた。新しくできた小さな小さな傷跡に、未海は泣きそうに顔を歪めた。今日は何が不安だったのだろう。何を心配してしまったのだろう。そんなことを考えながら一筋だけ流れた涙を指ですくってやって、安心させるように微笑んでみせた。それに彼女が笑い返してくれれば、今回の件はこれで終了。まだうっすらと血の滲む真新しい傷については、俺も彼女も二度と触れることはなくなる。
それで良い。そう思っている。
視線を少しずらすと、俺の目が未海の目元にできた深いくまを捉えた。それをそっと撫ぜて、昨日眠れなかったのか?なんて白々しく聞いてみる。本当をいえば、彼女が毎晩浅い眠りに悩まされていたことはかなり前から把握していた。理由もたぶん、想像する通りだろう。それでもはっきりと彼女の口から聞くまではと思い、随分と長いこと何もしてやっていない。別に怠慢しているわけでも確証のなさを案じているわけでもなく、その方が彼女の為になると思ったからだ。
でも、と先ほどできたばかりの傷跡に視線を落として、恐らく今日も眠れないのであろうことを察してそっと目を伏せた。





蓮二は、私の癖について本当によく理解を示してくれる。
どうしてそんなことをするのか、理由を話したことは一度だってないが、それでも彼は全部わかっているかのような顔で私を受け入れてくれた。優しくてかっこよくて、暖かい。彼はそんな人だ。

(だから、不安になるんだ)

小さく呟くようにこぼす。蓮二に頭を撫でられながら、苦しい気持ちに胸がいっぱいになってしまう。そうしてまた彼の腕に爪を――と、そこまで指が動いたところで手を止めた。いくら彼が容認してくれているとはいえ、これはいけないことだ。普通のことでもない。我慢して、自制できなければいつかは蓮二に見捨てられてしまうのは目に見えていた。
所詮、お荷物。所詮、ただの影。
他人から見た評価を気にしたらキリがないことは知っていても、そんな周囲の声をいつの間にか無視できなくなってしまった自分がいる。蓮二の周りあるたくさんの女性の存在を恐れて、勝手に疑って。こんなに好きでいるのに、私はどこかでいつも彼のことを遠くに感じていた。いつか蓮二が離れて行ったらどうしよう、私なんて忘れて捨てられてしまったらどうしようという答えのない不安がじわりと頭を支配した。

「……寝たのか?」
「んーん、起きてるよ」

呼びかけに答えると、彼が小さく微笑んでくれるのがわかった。髪をすいていた手がまた動き出して、愛おしむように撫でてくれる。片思いをしているときは触れることもできなかったのに、ずいぶん私は幸せになった。
きもちいい。
目を伏せながら呟けば蓮二が小さく笑った。動物みたいだな、って言うんだろう。やっぱりそうだ。蓮二は昔から物知りだったけれど、こと蓮二のことに関して言えば私だって負けていないと思う。それだけ長い間見ていたし、それだけ深く彼のことを思っている。好きなのだ。

「……未海」

瞼を持ち上げると蓮二が私をのぞきこんで微笑んでいた。まだ0時にもなっていないのにそろそろ寝ようと言うらしい。最近の彼は眠れないという私を気遣ってか、少し早めの時間にベッドに入ろうとしてくれる。いくら早くベッドに入ろうと眠りが浅くなるのに変わりはないが、彼の腕の中にいる時間が伸びるのだと思えば幸せなことかもしれなかった。
おいで、という彼の声に従って目を閉じる。すぐに眠気に襲われて、私は少しばかりの眠りについた。





どれくらい時間が経っただろうか。目が覚めてしまい、時計を確認すれば一時間ほど針が進んでいた。蓮二を起こさないようにとそっと顔を上げて彼の方を伺う。すると彼はまだ眠っていなかったようでばっちりと目が合い、名前を呼ぶとやんわり微笑まれた。

「寝てなかったの?」
「ああ。どうせお前がすぐ起きるだろうと思って」
「……そっか。ねぇ蓮二」
「なんだ?」

落ち着いて呼吸をしながら、私はすっと目を細めて口を開く。

「私が眠れない理由、わかってるんでしょ?」

肯定を期待しての質問だったが、やや間をおいて実際に彼にうなずかれてしまうと、少しだけそんなことを聞いたのを後悔した。やっぱり蓮二は全部知っている。私がどうして彼に跡なんか付けるのか、どうしていつもよく眠れないのか。わかっていて私に言うのだ。「気にするな」、って。
思わず涙が溢れそうになるのを必死にこらえて、震える声で絞り出すようにあのね、と囁いた。これまでずっと言えずにいたことを、今なら言える気がする。そんなつもりで言葉を紡ぐと蓮二は優しく頭を撫でてくれた。

「わた、し、蓮二が好きなの。色んな人にさんざん、釣り合わないとか別れろとか言われたけど、それでも好きなの」
「ああ」
「蓮二もいつも、私に好きって言ってくれるでしょう? でもわたし、不安だった。あなたはたくさんの人に好かれてるから、いつか捨てられたり、誰かにとられてしまったりするんじゃないかって、ずっと、」
「わかってる」
「何にもしないで、隣にいるだけなのが怖くて、蓮二と離れたくなくて」
「うん」
「蓮二が自分のものだって思えるものがほしくて、みんなに見せつけてやりたくて、だから」

わたし、こんな酷いこと。
呟いた声は夜闇に紛れて小さくなる。私の指先が無意識に彼の腕に触れ、今日付けたばかりの小さな傷を撫ぜていく。優しい瞳が私をじっと見つめている。やがて抱きしめられた温もりに思わず堪え切れなくなり、目にたまっていた雫がぽろぽろと零れていった。鼻をすする音は次第に大きく、嗚咽に変わって、子供のように泣きじゃくる。あやすような彼の仕草に好きだなあ、なんて再確認してはまた泣く声が大きくなった。やっぱり私は嫌なおんなだ。蓮二のお荷物、といつか言われた言葉がここにきて強くなってしまう。

「未海」

蓮二の低い声が鼓膜を擽り、そのあとに続いた「愛してる」の響きに驚いて顔をあげた。好きではなくて、愛しているといわれたのはその時が初めてだった。
涙にぬれたきっと汚いであろう顔を、蓮二が愛おしそうに見つめてくれる。額に落とされた柔らかな感触に、一瞬何も考えられなくなる。

「俺がお前のものだというように、お前も俺のものだ。傷付けられても、それは未海が俺を愛している証拠なんだろう? ならそれで良い。……気にするな」

私が、蓮二のもの。それと最後に足された、幾度となく聞いた「気にするな」の声が嬉しくてまた私の視界が強くぼやける。それでも泣くまいかと少しヒリヒリする目じりを拭って、もう一度彼の名前を呼んだ。それから初めて口にした「愛してる」の言葉に、蓮二は優しく、嬉しそうに微笑んでくれた。





――――――――――――
彼との間に感じる透明な壁、涙の透明さ、見えなくなってしまった自分たちの気持ちなどをこのタイトルに繋げてみたつもりです。……ちょっと曖昧すぎたでしょうか。
元々詩のために用意された50題なだけあって、難しくて苦戦しています。

それと途中、柳さんの台詞に悩みすぎて口調がわからなくなりました。よく言われる凡例とは若干違いますけど、これがゲシュタルト崩壊というやつなんでしょうか……笑

(↓短編150作目でした! 大好きな柳さんで飾ります)

2015/3/19 repiero (No,150)

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