||50


屋上への扉を開けると、眩しい太陽の光が目に飛び込んできた。遠くから蝉の鳴く声が響いてきている。もう季節はすっかり夏へと変わってしまった。
刺すような暑さに顔を顰めつつ屋上を進んでいくと、奥に立っていた女子生徒がこちらに気が付いて振り返った。電話をしていたらしい携帯をいつぞやのように後ろ手に隠し、凄みのある顔を私たち二人へと向けてくる。でもその表情に対して、恐ろしさを覚えることはなくなってしまった。代わりにあるのは悲しい現実感だけだ。

「坂田萌美」

どちらが切り出すか、タイミングを計りかねていた時に突然仁王がそう言った。あまりにいきなりのことで、私は驚いたように彼を見上げる。無表情なその目が射抜くように高橋さんの方を見つめていた。対する高橋さんは、目を大きく見開いて何度も何度も荒い呼吸を繰り返している。その姿にずきりと胸の奥が悲鳴をあげた。

『くっ……あはははっ!』

大きな笑い声が沈黙を打ち破る。さっき聞いたばかりの、あの男の声が高橋さんの携帯から響いていた。私たちから彼女への距離はそこそこに離れていたが、携帯から聞こえる声はまるでそこに立っているかのようにはっきりとしている。

「どういうこと……、ねぇっ!!」

怒りと混乱と焦りと、色々なものが混じったぐちゃぐちゃな表情で高橋さんが携帯に怒鳴りつける。彼女は呻くように息を漏らして、長い髪の毛をかき回した。乱れた黒髪が風にあおられてさらさらとなびいていく。泣きそう、だった。

『最初に言っただろう? 名前にのまれるなって』
「そんな……」

高橋さんは唇を震わせて、しかし何も言葉にすることもなく膝をついた。コンクリの床がそれを受け止めて彼女の白い足を砂や石まみれに汚していく。そこに高橋さんの涙が落ちていって、太陽の光にきらりと輝いた。
私はそれに思わず、高橋さん、と名前を呼んだ。彼女はゆるゆると顔を上げ、私と目を合わせて薄く笑う。伝えようとしていた言葉はその表情を前にして融け消えてしまった。言いたいこと、思ったこと、いっぱいあった筈なのに何にも出てこなかった。

『それじゃあね……高橋恵理佳さん』

そんな笑い声と共に、一瞬、ずきりと頭の奥が痛んだ。その鋭さに思わず目を固く瞑る。それから再び瞼を持ち上げると、その時にはもう高橋さんの姿がなくなっていた。あ、という間抜けた声がこぼれ落ちる。慌てて仁王の方を見上げると彼もこちらを見ていて、数秒、何かを確かめ合うように見つめ合った。

「……え、と」
「終わったんかの?」

少しだけぎこちなく会話を交わす。また言葉が出てこなくなって必死に頭を動かしていると、ふと仁王が私の髪の毛に触れた。一瞬びくりと身体が震える。けれど痛みはやってこなくて、何事もなしに優しく頭を撫でられた。止まっていた時間が、どくん、どくんと音を立てて流れ出す。
混乱した私の顔をのぞきこむようにして、仁王が少しだけ笑った。行ってきんしゃい、と囁く顔は穏やかで、でも少し寂しそうだった。
私は軽く背中を押してくれた彼を振り返る。大きくありがとう!と叫んで、走って屋上をあとにした。





何度も転びそうになりながら階段を駆け下りた。こんな時ばかり長く感じる教室までの距離がひどく鬱陶しい。途中人にぶつかりかけてはすみませんとだけ言葉を飛ばして、早く早くと先を急いだ。その中で「たるんどる!」という聞き覚えのある聞きたくない声が聞こえた気がしたけど、たぶん気のせいだ。気のせいじゃなかったら後で大目玉だなぁなんて思って、でも今はそんなのも全部どうでも良かった。
二年教室の並ぶ廊下はそれなりに人が多くて、私はその隙間を縫うように走りながら目的の教室に転がるように飛び込んだ。すぐに視線が彼を探して、そうして奥に姿を見つける。気が付いたときには名前を呼んでいた。

「あ、めぐみ先輩! どうし……え、」

驚く赤也の様子なんてお構いなしに、右手を彼の頬に触れさせる。一瞬彼の身体が焦ったように捻られ、でも何も起こっていないことに気が付いて動きを止める。私の手はたしかに赤也の頬に触れていて、驚いたような彼の目も、たしかに私の方をじっと見つめていた。
途端にじわ、と視界が歪んだ。

「……っ、せんぱい?」

堪えきれずに赤也に抱き付くと、困ったような恥ずかしそうな声が頭上から振ってきた。周りの茶化すような声とか、ざわめきとかが照れくさくも思ったけれど今はただ彼に触れていたい。そう思うのだ。
やがて恐る恐るに赤也の手が私の背にまわされ、ぼやけていた視界は今度こそ何にも見えなくなってしまった。抱きしめた彼の身体が暖かい。そんなことが幸せだった。

今日、一緒に帰ろ。
そんなことを小さな声で言うと、彼がうなずく気配があった。相変わらずあげられない顔を彼の胸元にうずめて、ふにゃりと笑う。
もう二度とこの愛しい人が離れなければいい。そう思ってまた強く抱きしめた。

[51/55]
[prev/next]

[一覧に戻る]
[しおりを挟む]

[comment]
[back]


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -