||交わした言葉





ぱちゃ、とバケツの中の水が音を立てた。

誰もいない校庭の片隅。アブラゼミのうなるような声と、ミンミンゼミの金切り声だけが木霊していた。大会に向けて練習を頑張っているのであろう部活動生の声は遠く、それを囲むギャラリーの声すらもここでは小さい。静かで青春染みた夏の空気が、生暖かく漂っていた。
美術室に大量に置かれている黄色いバケツの水をすくう。拍子に腕がぶつかって、バケツを横倒しにしそうになってしまった。ばちゃばちゃとバケツの中で暴れる水は、今にも溢れそうだった。
絵の具をすくって、丁寧にそれを画面へと走らせる。薄く淡い、水彩独特の色味を。パレットは何度も使い古したせいで、もう落ちなくなってしまった汚れでぐちゃぐちゃになっている。バケツも同様だった。こちらはたくさんの人に使われてきたから、バケツの方が酷いかもしれないが。

「今日もやっとるんか」

ふぅ、と一息ついた時、聞き覚えのある声が正面から聞こえた。慌てて絵を隠すようにして顔を上げる。彼はそれを見て肩を竦めた。見られずには済んだようだ。

「どこの絵を描いとるんじゃ?」
「・・・教えません」
「それくらい教えてくれたってええじゃろ」

どうせ後で見るんじゃから、という言葉に一瞬戸惑ったが、そういえば昨日そんな会話をしたなと思い出した。私としては冗談のつもりで受け取っていたのだが、彼は本気だったらしい。勝手に約束にされてしまった。正直眉を顰めたくなったが、まぁその時になったら適当に誤魔化す事にしようと諦めた。

「私が見てるものを描いてます」
「そりゃそうじゃろう」
「それ以上は言えません」
「・・・ずるい返答じゃ」

仁王は苦笑いした。私はそれに勝気に微笑んだ。

「高梨、つったか」
「そうですけど」

まさか名前を覚えられているとは思わなかった。寧ろ覚えられないように、さらっと告げたつもりだったのだが。人の名前なんか忘れんよ、と言った彼はこう見えて礼儀を踏まえた人なのだろうと思う。

「ここから、何が見えるんじゃ」
「・・・それ、聞きますか」
「絵の事は聞いとらんからええじゃろ?」

それもそうだ。私は渋い顔で口を開いた。

「古い校舎と、並木と、校庭が見えます。それから、テニスコートも」
「ギャラリーに埋もれとるが」

仁王はテニスコートの方を振り返ってそんな事を言った。確かに埋もれている。だが見えないことはない。しかし仁王の言葉を否定することはせず、ただそうですねとだけ言って笑った。テニスコートが見えるか見えないかなんて、正直どうでもいい。

「今度は私が聞く番です。仁王さんはどうしてここに?」

昨日はボールを持っていたから、ここまで取りに来たのかと思った。しかし今日は持っていないように見える。それなら来る必要もないのでは、という私の至極全うな疑問だった。
仁王さんはその質問に少し眉をあげたが、すぐに笑った。眉を顰めた私の頭をぽんぽんと撫でて、無言でテニスコートの方を見た。答える気はないらしい。そういえば、昨日も直接答えてはくれなかった。ボールを取りにきたというのは、ただの推測でしかないのだろうか?もしそうなら隠す必要がない気がするのだが。

「・・・そろそろ帰るぜよ」
「あ、逃げるんですか」
「逃げるわけじゃなか。その内教えてやるぜよ」

仁王は笑って立ち上がった。そのままテニスコートへ消えて行く彼の背を見つめ、私は小さく溜息を吐き出した。

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