||約束の話





久しぶりに会った彼は、少しやつれている気がした。

バケツに水をくみながら、私はぼうっと宙を仰いでいた。今日も空が青いなぁとか、蝉がうるさいなぁとか、そんなことを意味もなく考える。その内にバケツから水が溢れているのに気がつき、慌てて蛇口を閉めた。入れすぎてしまった水を適当に捨てて、溜息をつく。
あれから一週間、仁王に会っていなかった。

「よいしょっと」

いつもの場所に腰をおろして、絵筆をバケツに突っ込んだ。雑巾で水気を落とし、橙の絵の具を拾って、完成間近なキャンバスへとのせる。絵はあともう一歩、本当にあと少しだと言うのに、一向に完成する気がしなかった。原因はわかっているつもりだが、わかりたくないとも思った。というか、理解することで自分の中で何かが崩れてしまいそうで、弱い自分は必死にそれを守るより他ならなかった。

仁王は、今日も来ないのだろうか。さわさわと風が流れる。相変わらずまだ暑い日が続いているが、それでも一週間前よりは幾分かマシになった。・・・やはり、あの時あんなことを聞かなければ良かった。あれが気に障ってしまっていたとしたら、私はもうそれに対してひたすら後悔することしかできない。しかし、もしも完成までに仁王が来なければ、約束はチャラになるなと少し楽観的なことを考えた。

「よっ、久しぶりじゃな」
「・・・! 仁王、さん」

突然かけられた声に、ぱっ、と顔をあげた。そこにいたのは、久しぶりに見る仁王雅治その人で。私はいつものように絵を隠しつつも、その少しやつれたような姿に眉を寄せた。なにかあったのだろうか。
仁王は私の表情から何かを察してか、ひょいと肩をすくめてみせた。昨日、大会があってな、という言葉も添えて。そういえばクラスの女子が騒いでいたような気もすると、今更のように私は記憶を掘り出した。

「・・・どうでしたか」
「まぁ、次の大会には進む」
「それは・・・、おめでとうございます」

あまり彼の表情はかんばしくない。次に進むというのだから進むのだろうが、結果的には納得のいくものではなかったのだろう。疲れているような表情も、それが原因かもしれないと思った。

「絵は、どうじゃ」
「はい。もう少しです」
「ほぉか」

仁王が笑う。私はそれをまじまじと見つめ、それから小さく下を向いた。今日はどうやら長居するつもりらしく、仁王は私の目の前に腰をおろした。

「お前さん、前に恋人がどうとか聞いとったな」
「・・・え、あ、はい」

その話は禁句だったのではないのか。私は驚いて目を見張ったが、仁王は何か特別な表情をしているわけでもなく、ぼうっと上を向いていた。ただそうすることが当り前であるかのように口を開き、つらつらと言葉を述べた。

「結論から言うと、恋人はおらん」
「はぁ」
「じゃが、言い寄ってくる奴は仰山おる。あと、つい最近まで付き合っとった奴もおった。・・・ま、お前さんも知っての通り、別れたんじゃがの」
「は・・・、」

「お前さんも知っての通り」。その言葉が指し示す事実は、ひとつしかない。・・・つまり、この間の雨の日に見た「修羅場」は、まさにその別れの場面だったと、そういうわけだろう。思いがけぬ事実が知識として転がってきて、私は呆然と仁王を見た。仁王は変わらず空ばかり見ている。

「しつこい奴じゃったのぉ。何回告白されたかもわからん。仕舞いには付き合ってくれなきゃ自殺するとまで言い出して、俺は仕方なく付き合うことにした。ただ、誰かにそれを言った時点で別れる、っつー約束でな」
「・・・別に、堂々と付き合えば良かったんじゃないですか」
「俺はこう見えても純情なんじゃよ。・・・好きな奴に、俺が誰かと付き合っとることを知られたくなかったんじゃ」
「・・・好きな人、いるんですか」
「おん。意外か?」
「意外です」

私から見た仁王というのは、恋愛に淡白な存在だった。だから好きな人がいるなんていのは意外も意外な話で、びっくりして筆を落としてしまった。緑の草に橙の絵の具がぺっとりとつく。それをじっと見下ろしながら、私は筆をパレットの上においた。

「じゃがな、突然その女に呼び出されたんじゃ。あんまり乗り気はせんかったけど、ようやくその呼び出しに応じた。そしたらその女、雅治君は私のことが好きじゃないのかとか言い出してな。好きなわけがなか、って正直に言ったら殴られた。ま、ちょうど良かったといえばちょうど良かったぜよ。それで別れられたからの」
「波乱万丈ですね」
「ははっ、波乱万丈か。そうかもしれん」

お前さんに見られとるとは、思いもせんかったしのぉ。
仁王はそう言って、視線を私の方へとおろした。未だに絵の具のついた草を見つめていた私は、それに気がついて顔をあげる。彼の瞳を見返した。

「3日もあれば、絵は完成するか」
「はい」
「・・・そんなら、その時また来る」
「・・・絵は見せませんけど」
「それなら、それでええ。伝えたいことがあるんじゃ」

仁王はまっすぐに私を見ていた。私はなんだかそれが見れなくて、逃げるように視線を裏返しのキャンバスに落とした。彼はこの絵を見なくても良いと言った。それは嬉しい。見せなくて済むならそれが一番だ。しかし、今までずっと見たいと言っていたのが急にそんなことをいうのだから、それはそれで少し残念な気がして、キャンパスの上で手を握り締めた。彼の今の話を聞いて、私はどうしてか心を揺らしている。ずっと見せたくないと思っていたこの絵を、いっそ見せてしまおうかと思い始めているのだ。そんなことをして、何が変わるかもわからないのに。

「じゃ、今日はもう部活に戻るぜよ」
「あ・・・、」

後を追うように動いた視線を、私はどうすることもできなかった。

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