||悪戯


ばっしゃあああん。

盛大な音と共に落下してきたバケツは、私の目の前を歩いていた赤髪の上に綺麗に着地した。計算されつくした動きでバケツは彼の頭に濁流を被せる。髪、顔、身体と順々に濡れていくその様は、私の視界でスローモーションに再生された。飛び散る水飛沫はまるでCMか何かのよう。

……えっと、これは、何事ですか。

いまいち状況を呑み込めない私をよそに、虚しく響くガシャンというバケツの落ちる音。すぐ先に見える曲がり角には目立つ銀髪がのぞいていた。それがすすすと動いて金の瞳をのぞかせたあと、大きくガッツポーズするように陰で腕が動く。一瞬ニヤリと口元を緩ませ、こちらから離れるように走り去る姿に私は確信した。たぶん、いや絶対、アイツが犯人だ。
被害者という呼び方が相応しいかはともかくとして、そうなってしまった赤髪さんに声をかけようかと少しだけ迷う。あの、大丈夫ですか、なんてとりあえず感満載の声は彼に果たして届いたのか。

「仁王ッ!!!」

急に我に返ったように自分の身体を見下ろした彼は、大きく怒鳴り声をあげて廊下の角に消えてしまった。あ……、という私の声は虚しく空をかく。彼の走り去った廊下の方からは、大きな怒声と2つのばたばたとした足音が響いていた。それをどうすることもできない私の目の前には、誰もいない水浸しの廊下と転がった錆びたバケツ。

「…………」

え、ちょっと、後片付けは?
思わず心の中で突っ込んだ私に誰が答えるわけもなく、代わりに転がったバケツがカランと音をたてた。人気のない廊下の静けさにはいっそ哀愁すら感じる。すっかり水浸しの現場を見つめて、ちょっと泣きそうになった。

「……あ、あった」

掃除用具を調達するために近くのトイレに入ると、案の定一式がロッカーに用意されていた。単に新品なのかそれとも掃除が行われていないからなのか、あまり使われていない感じがする。なんとなく後者であることを察しつつも、見て見ぬふりでそれを持ち出した。
びしょ濡れの床を拭くために膝をつくと、スカートが揺らめくのを感じて少し慌てた。あーもう、スカートが汚れたらどうしてくれるんだ。愚痴を言ったところで答える人はいない。ついでにいうと、汚れたスカートを何とかしてくれる人もいないわけである。
そう考えると、自分は何故こんなことをしているのだろうと不思議になった。昔からくそがつくほどの真面目だとよく言われたけれど、せめて自分に関係のないことぐらい見逃せる真面目さでありたかった。こんな時に何もせずに立ち去れる勇気がほしい。しかしそれも嘆くばかりである。「誰かがやらないといけないんだから」という悲しい言葉が頭の中を上滑りしてまた小さくため息をこぼした。

(全然終わらないや)

使っていた雑巾はすでにボロ布の域である。仕方なしに転がっていたバケツを起こしてそこに水を絞ると、面白いくらいに水が流れていった。まだまだ片付け終わりそうにはない。

「どうかされたのですか?」

三度目のため息をつきかけた時、突然声をかけられて顔をあげた。すぐ近くに眼鏡の男子生徒が膝をついている。濡れてしまうと思ったけれど、その人はあまり気にしていないみたいだった。
私がどう答えようか迷っていると、彼は私の手から雑巾をもらい受け、何も言わずに床をふきはじめた。驚いて止めようと手を伸ばしかけて、しかし視界に映る水溜りの広さにその手が止まる。ここは手伝ってもらった方が良いかもしれない。
真剣な彼の横顔にもう一枚取ってきますと声をかけ、急いでトイレに走っていった。雑巾をあるだけ取って現場に戻ると、彼は丁寧に床を拭き進めてくれている。きゅ、と胸が締まるのを感じた。

「すみません、ありがとうございました」

全てを片付け終え、私は改めて眼鏡さんに頭を下げた。ふ、と微笑んだ表情は優しい。

「いえ、お気になさらず。……よろしければ、経緯を聞いても?」

柔らかな笑みと決して無理強いはしない声音が私をとらえる。一瞬回答に詰まったものの、なんとか先ほどのことを彼に伝えた。登場人物は銀髪さんと赤髪さんというなんとも曖昧なものだったが、彼はうまいことそれを理解してくれたようだった。しかし説明が進むにつれ、だんだんと彼の表情が険しくなっていく。どうしたんだろう、とは思えども私に真意はわからない。

「……そうでしたか」
「あの、本当にありがとうございました」
「当然の事をしたまでです。こちらこそ、申し訳ない」
「……え?」
「では」

こちらこそ、とはどういう意味だろう。尋ねようかとも思ったが、彼があまりに険しい顔でいなくなったので、結局は何も言えなかった。

「……ま、いいか」

それにしても今日はツイてなかった。そんなことを考えながら教室の方に歩を進めていく。
疲れたなぁ、なんて呟く私の声は誰もいない廊下に反響して消えた。

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