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嫌な、沈黙だった。
その沈黙を作り出した主は窓からいとも簡単に逃げ仰せ、すでにこの場にはいない。ただ、なんともいえない気まずい空気だけが、私達の間に流れていた。
侵入してきた男を蓮二が追い払ってくれた事までは良かったが、こんな調子では結局なんの解決にもならない気がする。
・・・また、怒らせてしまったのだろうか。例えそれでも、彼にはお礼を言っておかなければならないのに。・・・もし彼が来ていなければ、私はきっとあの男に何かしらの辱しめを受ける事になっていただろうから。
だからせめて一言だけでも、という思いとは裏腹に、私の口からは一向に声が出てこなかった。

「奈菜」
「・・・は、え?」

突然の声に、間の抜けた返事を漏らした。顔をあげて真っ暗闇の中へ視線を這わすが、そこにはうっすらとしか蓮二の姿を確認できない。でも、どことなく彼は微笑んでいるような気がした。そう、それはそれは優しい笑顔で。

「・・・おやすみ」
「あ・・・・・・」

蓮二はそれだけ言うと背を翻し、部屋を出て行った。後には真っ暗な静寂だけが訪れる。それにそっと溜息をついて、もういなくなってしまった背中に向かって小さくおやすみと呟き返した。





翌朝になると、いつもの事ながら蓮二の姿は見当たらなかった。まだ朝早い時間なのに、既に会社に行ってしまったらしい。それに溜息をつくような、ほっとするような心持ちで私は部屋を出た。久しぶりに、コーヒーを飲みたい気分だった。

「熱っ」

予想外の熱さに顔を顰めつつも、マグを持って廊下へと出た。そのまま部屋に戻ろうとした私だったが、玄関から聞こえた声に足を止めた。

「・・・・・・そうだ、・・・は・・・・・・」

蓮二の声だ。
てっきりもう行ったのかと思っていたが、そうではなかったらしい。彼は片手で靴を履きながら誰かと電話をしていた。なんだかそれが気になって、マグを持ったまま彼の背へと歩み寄っていった。蓮二は私に気がついていない。

「れん・・・」
「あぁ。・・・愛してるよ」
「!!」

ゴトッ、と鈍い音を立ててマグが落ちた。まだ中に残っていたコーヒーが床に黒く侵食していく。その音に振り返った蓮二が、私を見るなり驚いたような顔をした。それから床を見て、ああ、という顔をする。

「落としたのか。・・・片づけを手伝いたいが、あいにく時間があまりない」
「・・・・・・」
「すまない。片付けるときは、手を切らないように気を付けろ」

それだけ言うと、蓮二は家を出ていった。重く閉められた扉は、私たちを隔てる壁のようだった。

「れん、じ・・・?」

ヒビの入ってしまったマグが、ゴロゴロと音を立てて転がる。大きく入ったその亀裂は、まるで私たち自身の事を示すようだと、頭の隅で誰かが笑った。


おそろいだったコーヒーマグ


「愛してる」の声が、酷く重くて。

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