『隠れましょう』

 先ほどそう切り出したのは他でもない、撫子だ。
 その判断が、それを下したのが彼女だということが、寅之助を「おっ」と思わせたが、彼は敢えて触れなかった。
 撫子は寅之助にとって自分がつまらないお嬢から脱却しつつあることに気づいていない。
 もちろん、隠れるという判断が知り合って間もないころの彼女にはありえない選択肢だということも。

 警備員の声と足音が近づいて来た時――きっかけは撫子が誤ってバケツを蹴ったことだ――、面白くなってきた!と、寅之助は心中でニヤリと笑った。
 このハプニング的展開は、彼がひとりで忍び込んでいたとすれば望めないものだ。
 何よりこんなヘマをすることなく、息を殺して警備員が通り過ぎる過程を楽しみ、一切の騒ぎを起こさず退散するだろう。人知れず。究極の一人遊びだ。一人で決行し、露見することないままミッションコンプリート。
 敵が決められた各ポイントに配置されたゲームより、よっぽど楽で、リアルで、呆気ないものだ。終わったところで次のステージに進むわけがなければ、完全制覇によるボーナスも付かない。
 物足りない。

 それがどうだろう。
 つまらない顔を覆してみたいからと誘った相手こそが、寅之助の日常を非日常に変えている。
 体感できるだけで多くはなかったスリルが、撫子ひとり巻き込んだだけでこんなにも膨れたのだ。
 面白くないわけがない。

「……トラ…ッ」

 真っ暗な中で互いの位置が正確に把握できるのは、ここが子ども二人がやっと入れるロッカーで、ぴったりくっついているからだ。

 コツコツと、警備員の足音と衣擦れだけが廊下の静寂を打ち消す。時々、懐中電灯の光が隙間から入ってきた。侵入者を捜して光はゆっくり移動する。

 光に驚いたのか、撫子の肩がぴくりと上がったのが寅之助にもわかった。ドクン、ドクン。少し大きく速くなった彼女の心臓の音が、ブレザーとつなぎ越しに伺える。

「しっ…気づかれんだろ」

 ああ、こいつにとって今は、滅多に体験することのない状況なんだ。早鐘を感じつつ、スリルという言葉とは無縁そうな撫子を見やった寅之助は、はたとあることに気づいた。
 光はもう遠退いたが、闇に慣れた目がうっすらと色覚を思い出す。ぼんやり浮かび上がらせる。

(緊張してんのか?こいつ)

 明らかに学校に入った序盤のハラハラとは違う、ドキドキという形容のほうがしっくりくる表情。「もういいでしょう?」と困ったようにこの状況からの解放を望む声色。

 面白いな。
 面白くないわけがない。

 耳をすませても靴音は拾えない。音が遠ざかったのは確認済みだ。気配も感じないし、きっと警備員は腑に落ちないながら気のせいだったと解釈したのだろう。

 廊下に出たがる撫子に、実はまだいるかもしれないだろうと注意深く言った寅之助は本心では逆だと思っている。
 提案を受け入れられなくともこの初めての状況の勝手をしらない彼女が、常習者である寅之助の意見を聞かないわけがないと、彼は見られていないのをいいことに、意地悪く笑みを浮かべた。


社会勉強の一環です


(110611)
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