見とれてずぅっと眺めていたら、まばたきした一瞬に吸い込まれていた。
青い蒼い、コバルトブルーの世界。上も下もとにかくきれいに真っ青で、右も左も後ろも前も、深くて明るい青く狭い世界。ぐるんと四方に首を回して眺めたら、やがて平行感覚を失ってしまって、ぺたり膝をついた。
ひんやり心地よい床。まどろみに誘うような快適な温度を保ちつつ、私の体温と同化して境目を見失わせる。
ここは、蒼い底なし沼なのかもしれない。限りなく優しく、居心地が良すぎるくらい過保護な沼。
光沢があるのは、青に薄い透明な膜が張ってあるから。涙だ、と思った。指先を這わせるとぴちゃり、たぷんとたゆたう。円形状に波紋を描いて、世界が震えた。
「おーい、すずやー」
この世界の王さまを呼んでみる。数分前まで、私がじっと見つめていた相手だ。
神さまだったり仏さまだったりいろいろな呼ばれ方をされてる人だけど、私は「王さま」という表現が一番好き。だって人間的。
創設者より、支配者。
平等より少し特別。
きらきら周囲の青がざわめきだす。散らばる宝石を目を凝らして探すように、その点たちを仰視。ひときわ優しい光を放つ、まあるい点がある。ああきっと私が入ってきた光の穴はあれだ。向こう側にこっくり船を漕ぐ自分がいた。
「すずや、もどしてよ」
ダメだ。
この世界と同じ色をした声が反響を伴って降ってきた。
おまえはがんばりすぎ。
そこで休みなさい。
眠る私の頭を撫でる手が見える。錫也の手だ。髪が乱れないよう流れにそって、シャボン玉相手みたいに撫でる。普通のシャボン玉はすぐに割れちゃうけど、私はそんな簡単に傷まないのに。
感触だけが伝わってくる。本体と強くシンクロしたままだからか、錫也までこの世界に入り込んだようで妙だ。
錫也の指がすいた髪先はきらきら星の砂をまとい、風のない空間でもさらさら流れた。
酷使しすぎだよ、月子。
「わかってるよ」
わかってないよ。次に壊れて消えたら、俺はもう君を直せない。
「次って…すずや、私はずっと元気でしょう?」
――うん。そうだよ。
変な錫也。
王さまに“変”は失礼かもしれないから、心の中でだけ笑った。
そうだね。
今日の俺、変なのかも。
ここは心と精神の世界。初めてここで目覚めた時、錫也から教わったことだ。口に出す出さないは関係なく、意識して思ったことは直接王さまのもとへ届く。
忘れていたのだけれど。
相変わらず撫で続ける指が、頬、首筋肩を伝って指先に降りる。感触だけを受信するというのはむず痒いものだ。力が与えられ、補修されているのだとわかる。脈に沿って血流を蒼の光が駆け巡り、静脈から心臓へ入り錫也の手のひらへと戻るのだ。
自分じゃないものに中で蹂躙される感覚に、ぞくぞくと奮える。初めては遠くなるほど昔だけど、いつだったかは覚えていない。ただろくな説明もされず、性急に取り込まれ入れられた。切迫していたような気がした、薄いセロテープ切り貼りした記憶。
触って欲しいの?
「触ってるでしょう」
そうじゃなくて、身体じゃなくて、君(月子)にだよ。
「…触れないくせに」
とたん世界が歪んで、蒼の沼に埋まった。ひんやり暖かいものに呑み込まれる。呼吸とかの心配はない。だって私は精神だけを吸い上げられてこの世界にいる。身体が舌根で気道を塞いで、地味な事故自殺でもしない限り無事。湿っぽい。涙腺が収縮を繰り返しているようだ。私は今、王さまに我慢させているのだ。罰当たり。
意地悪を自覚すると、錫也は静かに解放してくれた。そもそもこの世界は錫也だ。ここにいる私は常に錫也に触れられている、と。触れている、と、そういうことになる。
だとすればおかしな話だ。
なあ月子。まだ“生徒会”を続ける気なの?
「もちろん」
そう、か。
「すずやは何か不安なの?」
不安じゃないって言ったら嘘だよ。……違うな。俺はすっごく嫌だ。
力強く嫌悪を放った先に、何があったのだろう。その時だけ私の身体から目を逸らした錫也は、すぐにまた私を見た。
光の色が変わる。穏やかないつものコバルトブルー。
戻してくれる合図だと、ある程度の経験値を積んだ私は察した。私を仰ぐ点から顔を背ける。熱い。精神だけの私にも関わらず、これから起こることに頬が火照る。
ふにゃ、と唇に柔らかめの感覚。次に見えないものに口を抉じ開けられて、捩じ込まれ、吸われる。とろんと瞼が落ちた。ふにゃふにゃの精神が溶けてゆく。溶けて、液体になって、シャボンの泡になって、駆け抜けた風圧の軌道にのって消えた。
アオいアイじょう
頭を撫でる手つきに気づいてまどろみから覚めた。慣れ親しんだ机の感触。頭に手を回して掴めたのは、錫也の手だった。
「ごめん。私、寝ちゃったんだね」
「いいって。疲れてるみたいだったけど、気分はどう?」
「…なんだろう。楽になったみたい」
眠ったからかなぁ?
見回りで教室に入ってきた時は重かった肩や頭が、すっきりしていた。ここ数日走り回ったり立ちっぱなしだったりでむくんだ脚も軽い。まともに瞑っていなかった目も、声を張り上げて傷んだ喉も。違和感を覚える程度には健康だ。
よほど深く眠っていたのだろうか。夕方だったはずの空で、青白く星が光っていた。
(110501)