帰還end〜




 まだ怖がられたり、くだらない説教をされるほうがよっぽどマシだと思える表情を、俺は見つけてしまった。

 撫子の様子がおかしくなったのはいきなり呼び出されて始まった課題――寅之助はほぼサボりだったが――が終わって少し経ったころだ。
 今まではクソ真面目な性格のくせにつまらなそうな表情が標準装備だった撫子が、俺を見て顔を歪める。それだけ。つっても、それって胸糞わりぃ。嫌な顔しながら俺にくっついてくる意味がわかんねぇ。

「おまえさ、俺が嫌いになったなら無理してついてくんなよ。鬱陶しい」
「そんなんじゃ、…ないわ」

 私がトラを嫌いになるわけないじゃない。
 にっこり笑顔を張り付けて、俺の横に並び続ける。女って理解できねぇ。いや、こいつが特殊だってことはよくわかってっけどさ。
 一日分の教科書が詰まったカバンを両の手で提げて歩くそのしぐさはなんら変わっていないのに、顔だけがどこか歪んでいるのだ。以前までの毅然と凛とした華やかさが薄らいで、儚さが際立っている。寅之助を見る度に痛々しさが増す。

 あーあ。泣きそうな顔してやんの。

 んな顔すっくらいならこっち見んなよ。

 かといってこの物好きなお嬢様を殴ってまで手離す気持ちもさらさら起こらないから、寅之助はほおっておく。
 他の課題メンバーたちといる時は普通に振る舞えてるんだから、原因は少なからず俺なんだろうと寅之助は推測して。推測の域を出ない。だって彼には何も思い当たることがないのだ。

 喧嘩を売られれば片っ端から買っていたのは当初からなんら変化していないし、それだって撫子は泣くより先に寅之助を叱るのだから。

 チッ、と、寅之助は舌打ちをした。足元に転がる小石をつま先で蹴り飛ばす。カツンとブロック塀にぶつかって跳ね返り、板のずれた溝に音を立てて落ちた。

 気に食わねぇ。

「おい、」
「なによ」
「泣きたきゃ泣けばいいだろ」

 言ってから、何言ってんだ俺と思った。こんなところ時田にでも目撃されてみろ。また青春だなんだ騒がれるに決まってる。撫子にだって笑い飛ばされるかもしれない。もしくは、驚かれるか。
 後ろ手で頭を掻きながら様子を伺うと、予想していたどれとも違うことが起こっていた。

「泣けないから辛いんじゃない……!」

 絞り出された言葉とは裏腹、先ほどよりずっとたくさんの水分で濡れた瞳がそこにあった。唇をかみしめて、溜まった涙を一滴もこぼすものかと抗っている。撫子は、これでもかと堪えていた。お嬢様の彼女のどこにそんな根性があるのか。

 泣いた分だけ忘れるのよ、と彼女は言う。涙に全部持って行かれるんだわ、と。
 忘れたくないのとまで言った時、寅之助を見据えた瞳からはついに決壊した涙が落ちた。

「トラの馬鹿ぁ…!」

 堰を切って、赤ん坊のようにわんわん泣きだした撫子が、寅之助の腕を掴む。そのまま額を押し付けるように預けられて、寅之助はどうしたらいいかわからなくなった。こんな弱さそのものの彼女を見るのは初めてなのだ。六年間使っているだろうに綺麗なままのカバンが、コンクリートの上で横たわっていた。
 いつだって強気で吐き気がするほどの優等生で、胸張って生きてるって言葉がお似合いの撫子が。周囲を気にせず顔をぐしゃぐしゃに崩しながら泣き喚いている。

「やだよぉ……忘れたくなんて、ないのに」

 彼女自身が使う寅之助の愛称を呼びながら。時折罵倒と、愛の告白ともとれる言葉をぐずぐずに織り交ぜながら。忘れたくないと、何かに懇願しながら泣いている。

 忘れちまえ。

 寅之助は思った。余計なお世話だから言いたくとも言わないが。心の底から、自分の知らない何かに向かって悪態をつく。
 俺は何も知らない。
 忘れたくないと撫子が必死に守ろうとするものに心当たりがない。その事実に苛立ちが募る。
 俺がその意思を尊重するなんて考えてるならそれはお門違いだ。

 泣いて、全部忘れちまえばいいんだ。


この涙が乾くのを待つより目が覚めるのを待つ方が優しく容易いことだというひとつの学習


(110308)
title by:)夜風にまたがるニルバーナ
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