キュ。蛇口を締めて息をつく。バスタブもキレイに片付けて、さてあがろうかというところで廊下からのノックが聞こえた。

 もう夜の10時に差し掛かったこの時間帯に、いったい誰だろう。「はい」と返事をしてみたものの、さすがに裸で出るわけにもいかないので「ちょっと待ってください」とすぐに付け足した。
 下着と、とりあえず手近にあったスラックスを穿く。
 上は、まあいいか。急ぎの用かもしれない。

「どなた?」
「夜遅くにごめん!…あの、錫也にお願…い、が」

 施錠を外し開いたそこには、あいつがいた。
 頭を下げて勢いよく詫びられた後、ゆるゆる顔を上げたと思ったらピシッと固まった。
 徐々に開かれてゆく瞳孔。わなわなと落ち着かない口、色づく頬。
 なんだ…?あ、俺の格好か。

「悪い、ちょっと待ってろ。すぐ着てくるから」

 コク、コク。壊れた玩具のごとく頷くのをよしよしと撫でて、上がってて。と促した。
 こんなあいつの様子に、隠れてほくそ笑んでいる自分は不謹慎だ。それでも、意識されていると実感して嬉しくなってしまうのだからしょうがない。
 数日前にやっと変わった関係を思うと尚更だ。

「あのね、お風呂を貸してほしいの」
「風呂?」
「うん。私の部屋のお風呂、水の出が悪くて。昨日は平気だったのに」

 見れば左手にショップバックを提げていた。おそらくタオルが入っているのだろう。

「別に構わないけど…。今度は部屋を出る前に連絡するように」
「したよ。でも出なかった」

 眉を潜められた。コンポの隣に置いたままのケータイを確認すると、ディスプレイに着信アリの表示。
 記録からしてちょうど風呂に入ったころだ。
 拗ねた風を装うあいつの頭をごめんごめんと撫で付ければ、気恥ずかしさを隠したいのかぷぅと頬を膨らました。甘えたなこどもっぽさが、とても愛しく思える。

 キス、したい。
 でも駄目だ。今したら絶対止まらなくなる。
 ふたりっきり、夜、鍵は掛かってないにしても俺の部屋。ある意味危険要素が揃い踏みだ。
 なんて生殺し。

「錫也?ねえ、怒った?」

 ここまで破顔した――しているであろう俺のどこに怒りを見たのか。まったく、見当違いの鈍すぎ、さらに危機感無さすぎだ。
 ひとつ息を吐き出して、笑ってみせた。

「怒ってないよ。ほーら、さっさと入っちゃいなさい」
「…はーい」

 煮え切らない表情で風呂へと向かう背中を、ただ見送った。即席の笑顔をした時は、まさかシャワー音に苦しむことになるなんて、予想もしていなかった。
 このシチュエーションは拷問以外の何者でもない。
 うわ…、自分で使っている時は何にも気にしないのに。
 それは当然にしても。あいつが使っているってだけで、こうも鼓膜に響くものなんだ。簡単に許可を出すには早まったか。

 耳を塞いでもザーと入り込んでくる音。聞こえなくなったらなったで、どこを洗っているんだろうとどうしようもないビジョンが勝手に膨らんでしまう始末。
 ラジオを流して消そうと思い立ったが、電波の調子が悪いのか砂音混じりだった。どっちがどっちの音か、耳の奥でぐるぐるして、頭が痛くなってくる。
 結局すぐにラジオの電源をおとして、ついでにため息も落とした。

 額を膝に打ち付けるように、体育座りをする。
 健康男児らしく、身体は正直すぎだ。

 数十分後、ほくほくなあいつが出てきた。濡れたまま、少し高い位置でくくられた髪が艶っぽい。
 あいつ自信から漂う火照った空気が俺を煽る。
 昔から見馴れてきたつもり、だったのに。ダメみたい。
 触りたくて全部欲しくて、脳が上手く機能しない。

「お風呂ありがとう。…錫也、どうしたの?」

 具合悪い?なんて近づいてきたあいつに、弱りきっていた理性の糸がついに切れた。
 まだ水気のある手首を掴むと、小さな反応が返される。

 せっかく想いが実ったばかりなのに。大切にしてきたし、これからもしていくと誓ったばかりなのに。
 本能がどんどん先をいって、知能が置いていかれる感覚がした。

「……ごめん。イヤだったら殴っていいから」
「え?ちょっ…すず、ン」

 俺とまったく同じ香りをまとった身体を引き寄せて、抱き込む。潤みを含んだ声がゾクリとした衝動とともに促進剤に変わった。

 真剣味の薄れた謝罪をもう一度だけ繰り返して、抵抗を見せるのを待てるはずもなく、俺は微塵の余裕なく噛みついた。



(090810)

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