まだ、来ない。いつもならもう来ていいはずの時間だ。
 明日は生徒会の仕事はないと、昨日は確かにそう言っていた。
 昨日の明日は今日だ。そして少し高い位置に掛けてある時計が、気まぐれに進んでいるわけでないことも確認済み。音もなく秒針は動き、それにともなって1分、2分と過去に変換し蓄積されてゆく。

 アイツ遅いなーそうですねーまあそのうちくるだろー。
 後ろで無駄口をフル活用する三人組を、心の中だけで一喝した。実際口にしないだけで似たようなことを考えていた俺は、叱れる立場ではない。
 自分だけにしか聞こえない程度に溜め息をついて、射形を正す。
 射ようとして、狙いが定まらずに弓を下ろして。先程からこんな情けないことの繰り返しだ。

 こんなことではいけない。気直しに一度顔を洗ってこようと、弓を置いて戸に手を伸ばした時、向こう側から足音が聞こえた。
 …やっと、きたか。

「おい、一体何を…」
「こんにちは、宮地先輩」
「む……なんだ、木ノ瀬か」
「なんだって、ヒドイですよ。…あ、そっかなるほど。今、僕を先輩と間違えたでしょう」

 そこにいたのは生意気な後輩だけで、彼女の姿はなかった。
 にやにやと意地の悪い笑顔で見上げてくる後輩をにらみ、すれ違いに弓道場を後にする。水道までは少し先だ。

「確か、今日は生徒会ないって言ってましたよね?」
「…ついてくるな」
「だって先輩を探しに行くんでしょう?」

 だったら僕も、とにこやかに笑ってくっついてくる。

 違う、顔を洗いに行くだけだ、お前はいったい部活に何をしに来ている等々言ってやりたいことはいくつもあったが、それは全て口にできなかった。
 「ちが、」まで言い掛けて、言いたい相手が走り出したからだ。
 「先輩っ」と嬉しそうな声をあげた先には、今か今かと待っていたあいつがいた。

「梓君、迎えに来てくれたの?」
「はい。なかなか先輩が来ないので心配で…」
「そっか。ありがとう」
「いえいえ」

 先輩のことなら云々かんぬん。
 目の前で繰り広げられる会話に、無性に腹が立った。
 まず第一に、木ノ瀬が部活に顔を出したのはつい今しがただ。その上靴を脱いで上がってもいない。それなのに、その如何にもな言い回しはどうなんだ。

「宮地君も、ありがとう」
「違いますよ、先輩。宮地先輩は顔を洗いに来たんです」
「そうなの?」
「だってほら、タオルを持ってるでしょう?」

 …第二に、わかっているくせに俺をからかうな。
 つまりあれか?俺が水道に向かっていると気づいていて、わざわざ引き返してきた、と。
 なんて悪趣味なんだコイツは。ひとまず俺を指差して笑うのはやめろ。

「宮地君…?」
「…む?……っな!」

 ハッとした時には、少し離れたところで会話していたはずのあいつが本当の目前にいて、心配そうに俺の顔を伺っていた。

「眉間にシワ。何か考えごと?」
「な、なんでもない!」
「?なら、いいんだけど」

 すぐに距離ができたことにほっと胸を撫で下ろす。
 と同時に、どこか残念な気持ちも湧いてくる。俺はなんと決まりのつかない感情を、こいつに抱いてしまったのだろう。

「せーんぱいっ。行きましょう?」

 片手をとって上目遣いにこいつを見上げる木ノ瀬も、同種の感情を持っていることは明白だ。
 気づかないのはその気持ちを向けられている本人くらいのはず。このストレートさには羨ましいところがある。ただし、俺がやろうとは思わないし、やったところで頭がおかしくなったと心配されるだけだろうが。

「はいはい。宮地君は水道に行くんだよね?」
「いや、俺も戻ろう」
「ええー。遠慮しないで、後から来ていいですって」
「煩い。ところで何故遅れたんだ?」
「職員室前で水嶋先生に捕まっちゃって、資料集めを手伝ってきたの」

 それは災難だったな、と在り来たりな相槌を返せば、「楽しかったから文句は言えなかったけどね」と困ったように笑う。

 楽しかった、という一言が妙に気になったが、あえて触れないことにした。 どうして?なんて逆に聞き返されたりしたら、答える自信がないからだ。

「でも、遅くなってごめんなさい」
「いや、ここにもう一人遅刻者がいるから、気にすることはない」
「ちょ、宮地先輩!」

 彼女を間に挟んで、騒がしく弓道場までの道のりを歩く。
 それはよくもないが、悪くもない気分だった。


(090803)

金久保部長引退後だと思われ。
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