(「あ ている おぶ あす」番外編)
ゆっくり、不恰好なリズムで流れてきた音が、僕の耳に届いた。 技術があるわけじゃない。指の力が弱いのか、タッチもまるでなってない。素人のそれ。しかも曲が曲で、――それが逆に、興味をそそった。いったい誰が弾いているのか。
防音の施されている扉のこちら側に立ち、もう十五秒が経過している。Cの音で見切りをつけて入れば、空気の動きに驚いたその人が長髪を揺らし、こちらを振り返った。
「…なんだ、おにいちゃんか」 「なんだとは酷いですね」 「びっくりしたんだもん」
でも知ってる人であんしんした。と、はにかんで笑うその女の子と僕は、血縁関係でもなければ義理の兄妹でもなく、ただの同級生。彼女に“おにいちゃん”と呼ばれることへの抵抗はもちろんあっても、今の境遇を思えば不快感もわかない。彼女にとっての僕は、“十歳年上の男子”という枠組みに組み込まれている。(もしくは、将来共に活動する仲間、とか、おそらくは。)
あのね、と伺ってきたので、なんですか、と受けた。 彼女が窺い見るような時に見せる表情はもともと幼いというか、魔力を秘めていると思っていたけれど、今僕の眼前に突きつけられたそれはよりいっそうあどけない。
「おにいちゃんは、ピアノひける?」 「はい…?」 「次のおんがくでね、けんばんハーモニカのテストがあるの。だけど…」 「上手に弾けないんですか?」 「うん」
お指がからまっちゃうの。 そう言って実際に弾いてみせてくれた。なるほど。慣れない指の長さとピアノの硬さも相まって、思うようにいかないようだ。
「そこはこうするんです」
運指法をオクターブ上の鍵盤で実演してみせる。ほけーと見ているだけの彼女に練習しないのかと視線を送れば、何を勘違いしたかぱちぱち拍手をされた。 「……?」その反応にこちらの目こそぱちぱちしてしまう。
「すっごぉい!じょーず!」 「あ…りがとうございます」 「わたしもおにいちゃんみたいになれるかなぁ」 「どうでしょう?」 「ええー?『もちろん』とか、『なれる』って言ってくれないの?」 「言って欲しいんですか」 「むぅー」 「『もちろんです』。『あなたならなれますよ』」
棒読みの励ましと笑顔を与えれば、「いじわるっ」と、種を溜め込むハムスターのように頬を膨らませた。そんな彼女に、練習しなければ上達するものもしませんよ、とだけ諭す。
「………」
僕も、人に教えられるほど偉く出来た人間ではありませんが。
「おにいちゃん?」 「ああ、すみません。それじゃあ少しやってみましょう」
鋭い。のか、偶然かは解り得ないが、訝しげな表情は僕の心理を知っている気がした。 そんなわけない、だってまだこどもじゃないか。疑念を振り払おうと、手に手を重ねようとしたところで、現実から事実を思い出した。発作的に離れる。
(……気安く、触れてしまうところだった…)
これは彼女の手だ。今は違うだけで、いや、違うわけでもない。彼女は彼女だが、そういう哲学的なことではなく、――どう解釈するにしろ、これほど容易く触れていいものか、という。
「ねえってば」
しかし幼いこどもの意欲を無下にするわけにもいかないし、かと言って簡単に……ダメです。いけない。この考え方がいけないんだ。 こんなことをごちゃごちゃと考えてしまっている時点で、僕の前に、確かに存在している彼女を侮辱してしまっているようなもの。
「おしえてくれないの?」 「っ!!」
すっと伸びた指が、さっきまで白鍵だとか膝の上に措かれていた手が、僕の腕に触れた。躊躇などの類いはいっさいなく、まっすぐに掴まれる。ビクッと揺れた肩に、彼女は気づいただろうか。
おそるおそる瞳を合わせると、これまた邪気の皆無な色をしていた。
「…では、真ん中のドに、親指から順に載せてください」
どうしたものか逡巡したあげく、先ほど弾いてみせたポジションに手を置いた。
きっとこのくらいで丁度いいんだ。
「わたしがうまくひけるようになったら、おにいちゃんのピアノ、また聞かせてね」 「ええ。そうですね、」
上手く弾けるようになったら考えましょう。 その時に、君がまだ僕の隣で笑っていてくれたなら。
ふんわりフルーレ
(100223)
リクエストありがとうございました。本編では未だに未接触の2人(一方的になら颯斗→主人公)ですが、設定ネタバレも含めて先に出す、というのもありかなぁ…と^^ リクエストしてくださった方のみお持ち帰り可能です。
香夜
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