「マジかよ・・」

玄関まで来て漸くその音に気付いた時、嫌な予感はしていた。案の定、外と内を隔てる引き戸を引けば、まるでバケツをひっくり返したような雨が視界を埋めた。見上げたどす黒い雲からは無数の雨粒が地面に落ちていく。思わず留まった庇の下、強風に乗った雨粒が礫(つぶて)となり吹き付けた。確かに最後見上げた空は今にも泣き出しそうにぐずついてはいたが、まさかここまでの大雨になるとは予想していなかった。数歩先さえ見づらい程視界が悪く、申し訳程度に設置された軒を連ねる外灯がぼやけて光るが道端を照らす役割は果たしてはいない。土方は湿気を含んだ前髪をくしゃりと掻き上げる。行きと同じよう乗りつけた車で帰るにも、その車の持ち主は今も酒を呷り、当分は此処に居座るつもりだろう。部下の運転手はその世話に追われ、とてもじゃないが土方を送ろうなど考えも及ばない。それどころかこんな豪雨になっている事すら知らないはずだ。
土方は深い溜め息を一つ零し、一歩足を踏み出す。庇の下から出れば、何の雨除けも施さない土方に無情の雨が降り注ぐ。黒い隊服は雨粒をみるみる吸収していき、元の色を更に濃くする。無造作に伸びた黒髪が重くしな垂れ張り付く。輪郭を沿って流れた水滴が服の中へ滑り、冷たさに身を竦めながら足早に歩を進めた。傘を借りる暇など惜しい。一刻でも早く屯所に帰って余計な事を考えずに眠ってしまいたかった。

「何やってんだ、俺は」

雨音に掻き消される程に小さくぼやく。これは罰なのだろうかと思わずにはいられなかった。情けない話、忘れるとはいかなくとも、ただ考えていたくなかったからいつもは乗らない誘いに乗ったのだ。定期的に誘われる仕事抜きの上司の誘い。連絡もなしに現れる松平は唐突にこう言うのだ。「上等な料理、上等な酒、上等な女」、誘い文句にしては偉く不恰好だが、当の本人は胸を張ってのたまう。都合が悪くなければ誘いに乗る近藤とは違い、土方は強制ではない限りその誘いに乗る事はなかった。理由は他ならない、面倒臭いに尽きる。飲食に関しては上等じゃなくともマヨネーズさえあればどれもが上等となる。女に関しては興味がない。誘いに乗っても土方には何の楽しみもないのである。だが、今回に限っては事が違った。一瞬迷ったものの、土方は未処理の仕事を明日に回してでもこの場に赴いた。高級な食材のみで作られた料理には見向きもせず、別嬪の女から注がれる酒をひたすら身体に流し込んだ。悪酔いでもいい、明日の仕事に多少響いても構わない。胸中を占めるこの哀愁を消してしまいたい一心だった。何も考えられなくなるくらい酔ってしまいたかったのだ。

地面を見て歩いていたのに何かに足を取られ、勢いづいていた身体は前につんのめる。咄嗟に手を地面につき顔面強打は免れたが、打ち付けた膝の鈍痛に顔を歪めた。雨粒が跳ねる地面に尻を付けて掌を見れば、尖った石に触れてしまったのか至る所から微量の血が滲み出していた。おかしなものだ。頭の中は明瞭で酒による影響は受けていないのに、身体は鉛が沈んだように重くて上手く動かせない。少しでも楽になりたくて赴いたというのに、哀愁は濃く広く沈澱する。自分の不甲斐なさを知らしめるように、身体に絡み付いた女の匂いが鼻孔を掠めた。見向きもしない土方に負けじと絡む女の執念が尾を引く。酒によるほてりは何処へやら。底冷えした身体が悲鳴を上げ、歯の根が合わずガチガチとなる。真っ白な吐息が風に流れた。

「女に捨てられましたか?」

言葉が降ってきたと同時、ふいに雨が止んだ。傍らでは変わらぬ雨が降っているというのに、限られたこの空間だけは守られていた。項垂れた頭を持ち上げた土方を見下ろす蘇芳色の瞳に何故か胸がキリキリと痛んだ。薄紅の番傘が雨粒を弾き、土方が濡れず尚且つ沖田自身も濡れない近距離で互いを見た。

「・・・捨てられたって?」

よくも上司が雨の中蹲っている様を見てそんな不躾な言葉が吐けるものだ。胸中では罵詈雑言が蔓延っていたが、口から滑り出たのは何とも情けない声色で問い返しただけだった。言い返す気力も起き上がる気力もない。交わった視線を逸らす土方を追うように沖田が膝を折りしゃがみ込む。雨に濡れて冷えた頬に感じた微かな熱に視線を戻せば、沖田の細い指先が張り付いた黒髪を掬った。

「風邪ひいちゃいますよ」
「・・心配してくれてんのか?」
「まさか」

淡い期待を即刻打ち砕いた女は笑みを浮かべて頭を傾げた。

「姉上に会うのに風邪は厳禁でしょう?女の匂いを連れるなんてのは死活問題です」

思いがけない言葉に土方は目を丸くする。開きかけた口は湿っぽい空気を呑むだけに終わり、言葉が紡げなかった。沖田は弄んでいた黒髪から指先を離し、番傘と共に手に持っていたビニール袋を掴むと土方に向けて突き出した。

「余計な言い訳は聞きません。土方さんには姉上に会いに行く選択肢しかありませんから」

胸元に押し付けられたビニール袋を受け取って中を覗けば、激辛煎餅と印字された文字が見える。これは明日の為に沖田が買った物だ。受け取る相手が好む辛い食べ物を事前に用意したのだろう。明日になれば、沖田は夜が明ける前に起床して供物を片手に武州へと向かう。年に一回、沖田はある場所で一日の大半を過ごす事を土方は知っていた。だからその日だけはどんなに仕事が立て込もうとも土方は沖田に必ず休みを与える。今年だって例外ではない。凶悪な攘夷浪士が集う溜まり場へと討ち入りが控えた明日だとしても関係ないのだ。毎年通り沖田が行って姉妹水入らずで会えばいい。冷酷な仕打ちをした自分がどんな顔をして彼女に会えばいいというのだろう。すると揺らぐ土方の瞳を一瞥した沖田は立ち上がり、豪雨へと視線を投げた。雨足は弱まる気配を見せず、江戸を浄化していく。

「土方さんは、姉上に会いたくないんですか?」

決して大きくはない声。けれど、耳元に滑るように入り込んだ言葉に土方は迷いもなく答えた。

「会いてェに決まってんだろ」

自分がした行いを考えれば、彼女に会うなんて許された事ではない。それは土方自身、よくわかっていた。沖田に敵意剥き出しで牽制されるまでもなく、土方は彼女に近寄ろうだなんて一度たりとも思ったりはしなかった。だけどある日、そうこんな雨が降る夜に彼女がこの世からいなくなってしまった時、無性に会いたくなったのだ。必死にその感情を抑制して、紛らすように仕事に明け暮れ、堪えきれない日は酒を呑んでやり過ごした。それでも日々溜まる虚しさは余計会いたくなるばかりで仕方なかった。

「土方さん」

優しい声色に甘えてしまいたくなる。土方は差し出された手をじっと見つめ、この手を取るべきか逡巡してしまう。会いたいという気持ち一つで行っていいのだろうか。何の気なしに視線を上げれば、ふわりとした笑みが土方に向けられた。

「姉上、待ってますよ」

衝動だった。無意識に、縋るように手を伸ばした。冷たい風に吹かれ、震える指先に触れた掌が、泣きたくなる程に温かかった。






かじかんだ指先に、君の体温






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企画:さよなら地球様に提出。
ミツバさんに焦がれる土方さんと背中を押してあげる初期沖田。