虚構の恋4 | ナノ


 ――頁は先へを向かう。物語は半分を過ぎた。


 イドルフリートは極端なまでに雨を嫌う。それは彼の本質的な部分の他に、彼の航法も理由にあった。
 星々は彼に居場所を教え、潮は彼に行く先を示す。風は彼に嵐の到来を伝え、彼はやがて蒼天の航海士と呼ばれた。
 まるで身体全体でそれらを感じるように、彼の導く先では空が泣くことはほぼなかった。
「コルテス。嵐が来るよ」
 その日も唐突。甲板で指示を出す航海士は、船長に向かいそう告げた。
 その日は快晴。雨が降るなど誰もが予想もしないだろう。自然相手のこと、絶対とは言い切れないが、これまでイドルフリートが言い当ててきた天候からするに、彼が嘘をついているとも思えなかった。
「セイレーン…」
「ふふ、彼女の歌声に気を取られないでくれ給え。君は私の言葉を聴いていればいい」
「はいはい。わかりましたよ、航海士様」
「ふざけるのは止し給え。私はいたって真剣だ」
 以前は気付かなかった、いや、気にしない振りをしていただけかもしれないが、どうも言葉を選んでいるわけでもなさそうなイドルフリートは、芝居がかった言動が妙に様になっていて、孤を描く口元すらも絵になるような気がした。
 彼は笑みを浮かべていることが多かった。だからだろうか。その奥の感情に踏み入れるのは、容易なことではない。彼が何を思い、何を考え、何をしたいのか。コルテス自身もそれを面に出す方ではなかったが、イドルフリートはさらに感情を読みづらかった。それはまるで微笑みの仮面をつけたかのようで、イドルフリートのすべてを隠している気さえした。
「私は雨が嫌いなのだよ」
「…しってる」
 水が嫌いというわけではないようだが、イドルフリートが雨を避ける理由を、コルテスは知らない。
彼方を見やったイドルフリートは、徐にため息を吐いてから、室内へ繋がる扉へ向かった。
「だから、少し航路を変えようか、コルテス」
 彼が言うのなら間違いないだろう。コルテスはイドルフリートを信頼している。付き合いが長いわけではないが、その長さをものともしないくらい、彼らはよく似ていた。
「了解しましたよ」
 コルテスがイドルフリートに着いて船内に戻る。空は未だ、憎たらしい程の快晴。とても崩れるとは思えないくらいの晴れ模様で、人はこういう天候を航海日和と呼ぶのだろう。
 イドルフリートらが船室で話をし始めて小一時間程経った頃だろうか。海図を前に話していたイドルフリートが、ふと動きを止めた。
「イド?」
「まったく、此の船は低能揃いかね?」
「は?なんのこ…」
 コルテスが言い終わる前に、急に船が激しく揺れ始めた。コルテスは立っていたためか足に力を入れて踏ん張っている。対してイドルフリートは、この展開を知っていたかのように平然としたままだ。
 甲板の方から悲鳴や怒号がきこえてくる。ふう、と一つ溜め息をついて、イドルフリートは席を立ち、コルテスを見ることもなく部屋を出ようとした。
「お、おい、イド」
「何かね、船長」
 焦ったようにコルテスがイドルフリートを呼び止めるが、彼は意にも介さないように適当な返答しかしない。
「俺が行く。航海士を前線に立たせられるか。お前はここにいろ」
「何を馬鹿なことを。船長の君こそ、ここにい給え。
 最高責任者の見せ場はとっておくものさ」
 尤も、見せ場などやらないがね、と喉を鳴らすように笑うイドルフリートは、コルテスよりも先に部屋を出、鍵をかけてしまった。カチャリ、と軽い音を立てて閉まる扉は、コルテスが開けようと躍起になっても頑として開こうとしない。
「待てイド、おいこら!イドルフリートっ!」
「残念だったね、エルナン。低能な君はそこで指でもくわえているがいい」
 はっはっはっ、と哄笑を上げながら、その声は足音と共に次第に遠ざかっていく。焦りを隠すこともなく、行く手を阻む扉に八つ当たりをしてみたところで、先に行けるはずもない。
 なにかないか、と考えて、ふとどうして自分はこんなにも焦っているのか、とも思う。
 イドルフリートが航海士だからだろうか。海の上で彼を失うことなどあってはならない。勿論、彼がそんな失敗をするとは思わないが、如何せん路地裏の前例もある。いいや、そうじゃない。なにかもっと別の、コルテスはそこまで考えて、まずは扉を開けなければ、と部屋を見渡した。
 イドルフリートが甲板へ出ると、見知らぬ船が目に飛び込んでくる。どうしてこうなった、とイドルフリートが呆れるよりも先に、背後から腕を回され、喉元に刃らしきものが突きつけられた。
「…おっと」
「騒ぐなよ。死にたくないならな」
「私掠船…ではないな。海賊かい」
「どうとでも」
 否定するつもりはないらしい。混乱する船上で、イドルフリートは明らかに異質だった。
 ひゅ、と風を切る音と共に、重心はそのままに背後に向けて肘を繰り出した。そのまま背後の男は意識を飛ばしたらしく、ごとり、と床に倒れ伏す。
「どちらでも構わないのだが、此の惨状はなんだい。…ベルナール!」
 イドルフリートはコルテスと行動している男の名を呼ぶ。近くに居たのか、ベルナールと呼ばれた男は船の船首方向から顔を出した。
「どうしましたか、イドルフリート」
「イド、と呼べと言っただろう、低能が。
 …そんなことはどうでもいい。これはどういうことだね?」
「知りませんよ」
 即答するベルナールにイドルフリートはため息をつく。もう一度問いただすように、イドルフリートは名前を呼ぶ。
 コルテスと同じ色の短い髪が揺れる。その瞳はどこまでも冷めたような印象を抱かせて、面倒そうに船を見ていた。
「ベルナール」
「こちらからは仕掛けていません。あちらが勝手に売ってきた喧嘩です。
 ………船長は?」
「船室に押し込んできた」
「そうですか。その方がいいですね。奴らの狙いはおそらく船長ですし」
「そうか。まぁ仕方ない…ベルナールはほかを頼む」
「了解」
 そのまま踵を返したベルナールを見送り、さてどうしようか、とイドルフリートは考える。
 本当にどうしようもない。溜め息混じりにそう呟いた所で、現状は変わるはずがない。1対1でも明らかに負けているのは、おそらく意識というか、気持ちの問題だ。これは少しばかり教育が必要だろうか、とぼんやり考えていたところで、荒い足音が近づいてくる。
「おや、真打ちかな」
「これは…」
 まさに形から入ったような格好をした賊に、イドルフリートは見てわかるほどに小馬鹿にした視線を向ける。別にそうするのがいけないというわけではない。だがこれはいくらなんでも分かり易過ぎる。
「酔狂だな」
 ぽつりとイドルフリートが呟く。それは相手に届くか届かないかの小さな声だったが、届いていなくても特段問題もなかった。
「人の船に土足で上がり込んで…一体何が目的かね?」
 話をきこうという姿勢をとるイドルフリートに、男はニタリと嫌らしい笑みを浮かべた。悠然と腕を組む彼に、男は気を抜いたか、手に持っていた剣を降ろした。
「大したことじゃあない。船長殿に話があるだけだ」
「へぇ…」
「お前がコルテスか?」
 この賊、船長に用があると言いながら、その容姿もまともに知らずにきたのだろうか。
 低能が、と呟く言葉はどうやら聞こえたらしく、賊の隣にいた取り巻きが、なんだと、と声を上げて切りかかってくる。沸点は低かったらしい。
 振り下ろされる刃を寸でで避けて、イドルフリートは取り巻きを蹴り倒す。ついでに剣も手から叩き落としておいた。
 側頭部に重く一撃を食らった男は、ひとたまりもないとばかりに気を失った。
「そうだ、と言ったら?」
「その命をいただこう」
 沈んだ取り巻きに目もくれず、賊は目的を明かした。やはりか、とイドルフリートは心の中だけで息をついた。
「ふふ、船長はここにはいないよ。
 しかしまぁ、一体誰の差し金だね?いくら積まれたんだい?」
 教えてくれ給えよ、と笑みを浮かべながら、イドルフリートはそう唄うように言った。余裕の表情、海の上に生きる男とは思えない容姿、未だ抜かないままの腰の剣。
 賊は訝しむようにイドルフリートを見る。
「貴様…、何者だ」
「私の名は、イドルフリート・エーレンベルク。イド、と呼んでくれ給え」
「………コルテスは何処だッ!」
「君のような低能に、教える義理はないよ」
 どのみち、イドルフリートがそこから退かなければ、コルテスにはたどり着けない。そして、彼にそのつもりは毛頭ない。
 守る一方なのは性に合わないが、贅沢を言っている場合ではない。ここは通さない。
 イドルフリートが、腰の得物に手を掛ける。どちらかというとそれは、レイピアのような細身のものだ。彼は力押しというものを好まない。まともに刃を合わせることすら、滅多にさせてもくれなかった。だから、彼は一人でも多数を相手に戦うことができた。
 他はベルナールらに任せておいて、ここを通さないことだけ考えれば良い、とイドルフリートは考える。
「さぁ――、かかって来給え!」
 その声が合図になったように、数人が床を蹴った。広いとは言えない船の上ではあったが、イドルフリートはそれをものともしない。
 軌道を変える程度に軽く刃でいなしてから腰を切る。勢いはそのままに、踵から薙ぎ払う。常々足癖が悪いとは言われているが、こういう時はやはり拳よりも足がいい。
 邪魔だとばかりに蹴り飛ばしたあと、その背後の一人の右腕を剣で払う。致命傷にこそならないが、戦線を離脱させるにはこの程度で十分だ。
 あと何人だ、とイドルフリートは視線だけで数える。こちらが増えないのは、他の船員が抑えてくれているのだろう。
「はっ…」
 しかし、何故だろうか。頭とおぼしき男だけが動かない。あと3人。イドルフリートがそこから動こうとしないのに、気付いているのだろうか。彼は刃を構えず、ただ少し腰を低くしただけの体勢で、様子を窺う。こちらから仕掛けるわけにはいかない。防戦一方ではあるが、それも仕方ない。
 懐に入られかけても、その前に身体を捻って逃げ込む。突き入れられるだけの軌道では、イドルフリートの動きを止めることはできない。隣を過ぎようとする身体の首筋に手刀を、腹には膝を食らわせる。あと2人。
 そうイドルフリートが思ったとき、ガクン、と彼が足を崩した。
「ッ!なっ…」
 最初に足元に転がした筈の男が、彼の両足を取る。その力は予想外に強く、計算外の出来事にイドルフリートがうろたえる。その隙をつかれ、残っていた男の刃がイドルフリートの右手を掠める。それでも彼は己の刃を放さない。
「っ…!くそっ、はなせっ!」
 力の限り足を動かそうとしても、どういうわけかびくともしない。この男、ここまで腕力があったのだろうか。
 近寄ってくる頭とおぼしき男は、それでも剣を抜こうとしなかった。
「コルテスはその奥か?一兵卒に守られる船長など、話にならんな」
「…コルテスを侮辱するな!」
「遅いわ」
 振り上げた鈍い刃は難なく止められる。響く痛みに呻く声は小さいもので、周囲からは聞き取れてもいないものかもしれない。小さな傷でも増えれば動きが鈍るものだ。事実、あちらこちらで服が割かれ黒く染めていく。
 イドルフリートは痛みに呻くことを良しとしない。その声のあまりの小ささに、本当に痛覚はあるのかと疑える程だ。
 実際、彼は傷を負っても、倒れるということをしなかった。
「…っ」
「さぁ、そこを退いてもらおう」
「だれが…退くか!」
 背後で足音がする。今は拙い。この扉は鍵は掛かっていない。来るな、と念じたところで彼には届かない。
 時間稼ぎにしかならないことは承知の上だったが、もう少し余裕を見ていた。未だ小さくじくじくと痛む手で細身の剣を振り抜く。
 男が離れると同時に剣を落とし、袖に隠していたダガーを戸の取っ手に差し込んだ。
内開きの戸は、開かない。
「来るな」
 ガチ、と扉が鉄を噛んだ。それとほぼ同時に、服の下に隠し持っていたホルダーから左手で拳銃を抜き、海に向かって引き金を引く。
 パァン、という小気味よい音が響く。できればこれは使いたくなかったが、状況が状況だ。仕方がない。
「来るなコルテス、」
 小さくイド、と呼ぶ声がする。幾分くぐもって聴こえるそれは、扉の向こうからのものだった。
「君は私が、守ってみせる」
 互いにしか聴こえないくらいの答えるようなそれに、イドルフリート自身も少なからず驚いていた。
 もう一度、今度は足を握る腕に向かって銃を放つ。左、右と打ち抜くと、ようやく足が自由となるが、反動で痛む傷が、イドルフリートの動きを鈍らせる。
「イド、頼むイド。ここを開けろ」
「できない相談だな」
「…ならば力ずくでも開けるまでだ」
「来るな、コルテス…ッ!」
 コルテスからすれば、イドルフリートの意志は嫌と言うほどわかっていた。けれど、だからと言って本当に指をくわえて待っているだけでいいはずがない。
 みしり、と音がして、戸はいとも簡単に開いた。船を壊すなと、また言われてしまう。
 開いた瞬間を狙われ、まるで猪のように突っ込んでくるが、その刃がコルテスに届くことはなかった。
「はっ…」
 銃口が煙を上げる。刀身を狙って放たれたそれは、狙い通りの場所に触れ、弾き飛ばした。
 口調ではわからなかったイドルフリートの様子に、コルテスは目を開くが、小さすぎる変化に気付く者はない。
「ようやくお出ましか、船長殿!」
「……船に、何の用だ」
 イドルフリートですら背筋に悪寒を走らせるほどの、色のない声。
 次の言葉を紡がせることもなく、コルテスが床を蹴る。こいつはこんなに短気だったかな、と場にそぐわないほどぼんやりと思った。
 コルテスの剣、それはイドルフリートより重さも幅のあるもので、力にものを言わせるには十分すぎるそれが、目にも留まらぬ速さで抜かれる。刃渡りも小さいただのナイフを手に持っただけでは対処できず、その速さに動くこともしなかった。
 ピタリと首筋に刃を当てられ、男が呻く。おそらくは覚悟もなく海に出てきた、彼の言葉を借りるならば低能な奴等だ。一瞬の出来事に動けるはずもないし、圧倒的な速さとその威圧感に感じた恐怖で足が竦んでいるようだった。
「誰の差し金かはどうでもいい。帰ってこのザマを伝えろ」
 足を掛けて俯せに床に伏せ、その背を踏みながら甲板にいるはずのベルナールをコルテスが呼ぶ。イドルフリートが呼んだときと同じように、面倒臭そうな表情が顔を出す。
「なんだ、出て来ちゃったんですね船長」
「出て来ちゃダメみたいな言い方をするな。それより客人にお帰り願え」
「帰らせていいんです?」
「別に構わん、あとは任せる」
 剣を納めながら、ふと振り返れば、そこにイドルフリートの姿はなかった。
「…イド?」
 どこに、と周囲を見渡して、開いていたはずの戸がしまっていることに気付く。ベルナールが縄でコルテスの足元の男を縛っているのを確認してから、彼は船内へと足を進めた。
 暗い廊下に滴るものに、コルテスは気づかない。彼の部屋の前で、ノックもそこそこに戸を開ければ、金の髪が散らばる固いベッドが目に入った。
「……誰の許可を得て入ってきているのだね、低能が」
「低能はお前だ。何度同じ失敗をしたら気がすむんだ」
「…………」
 さすがに自覚があるのか、イドルフリートは黙ってしまう。耳に入るのは、波の音、雨の音。いつの間にか、雨が降ってきているようだ。イドルフリートが甲板から戻ってきたのはそのせいか、と考える。
 ふと視線を移すと、その右手の生々しい赤が目に入って、コルテスは焦ったように彼の転がるベッドに近寄った。
「化膿でもしたらどうするんだ!」
「安心し給え…すぐに治る」
 気怠そうにそう返し、左手で顔にかかる髪を払うイドルフリートのその手を、コルテスが取る。
 どこかその声色が、哀しげにも聴こえたのは気のせいだ。
「馬鹿言うな、小さい傷で死ぬことだってあるんだぞ!」
「…大丈夫さ。こんな傷大したこともない。もう痛くはないのだし」
「イド」
 たしなめるような声音に、イドルフリートは一つ、息を吐く。それから、まるで諭すように、コルテスを見て口を開いた。
「…私は死なない、死んだりしない。君が私を忘れるまで、私は君と共にいるよ、コルテス。
 私が進めなくなるその時まで、君を守るのはこの私だ」
 焦るコルテスとは対照的な、冷静なイドルフリートの瞳。痛みを感じさせぬ表情で、イドルフリートが微笑む。その柔らかさに、コルテスは思わず息を飲んだ。
 決して強がっている風でも、嘘をついている風でもなかった。心からそう言っているだろうことは、イドルフリートの普段と少し様子が違ったこともあって、容易に判断がついた。それは常の自信からでも、まして傲慢さから来るものでもなく、常人ならば身悶えるくらいのその怪我を、痛くないという言葉すら、おそらく真実なのだろうと思える程に。
 それが何を意味するのかまでは、わからなかったが。
 コルテスがイドルフリートの瞳を見ていると、ふと彼は表情を崩した。
「でもまぁ、君が手当てをしてくれるというのなら、よろしく頼むよ」
「あ、あぁ…」
 上着を脱いで右手を差し出し、コルテスがその手を取ったのを確認してから、彼はゆったりと目を閉じる。
 どこか遠くで生まれる痛みを、気のせいだ、と知らないふりをした。
 今、彼は航海士なのだから。思えば、それがきっかけだったのかも知れないけれど、その時は、思いもしなかった。