虚構の恋3 | ナノ


 ――本が閉じられる。


 イドルフリートが思い出すように、ゆっくりと頁を捲っていた指を止めた。誰もいないはずの空間で、かつり、と靴が床をたたく音がした。
「イド…」
 今ではもう呼ばれることのない愛称で彼を呼ぶのは、おそらくはイドルフリート以外には唯一そこに存在出来る、確固たる意志。
「先に往ったのでは、なかったのかい?」
 視線も返さずにイドルフリートはそう尋ねる。白の混ざる黒く濡れたような髪と、血の気のない肌、金と白の不可思議な瞳を持つ青年が、どのような表情をしていたのか、彼には知る由もない。
 青年は動かない。ただそこにいるだけだ。答えもなく、沈黙だけが返る。イドルフリートは再度口を開いた。
「メルヒェン」
「……僕は」
 促されるように、メルヒェンと呼ばれた青年は言葉を返す。不思議とその声は、イドルフリートと似通ったもののように聴こえた。発せられた声に色はなく、そこからどのような感情も読みとることは困難だ。
「貴方をおいては、いけない」
「メル」
「僕は貴方から離れることを許されていない。僕はイドがいなければ、存在できないのだからね」
大丈夫、メルツはちゃんと送り届けたから、とメルヒェンが続けた言葉に、イドルフリートが返すことはなかった。ただ目を閉じて天を仰ぐ。何を考えているのかもわからない。メルヒェンとは似つかない金の髪が、宙に踊った。
 かつん、とまた靴の音がする。ふいに、頬に触れた指の感触で、イドルフリートがゆっくりと目を開くと、メルヒェンがじっと彼を見下ろしていた。
「…やめなさい、メル」
「嫌だ」
 凍えるような、冷たい指先がイドルフリートの頬に伝う。まるで死んでいるかのような、冷えた指先。
「ねぇイド。どうしてだい?」
 メルヒェンが問う。表情を殺したイドルフリートが、同じように表情のないメルヒェンを見返す。そうして見れば、二人は声だけでなく、容貌のつくりも似ているように見えた。
 本に手は置いたまま、イドルフリートは口を閉ざしたままだ。
「迎えを、待っているのかい?」
 イドルフリートは動かない。見返す視線には動揺すらも浮かばない。その瞳が、揺れることはない。しばし静寂の時間が流れる。お互いに視線を外さないまま、吐息の漏れる音だけが微かに響いていた。
 イドルフリートは動けない。何もない其処から、抜け出すことはできない。しかしもう、それを試みることもない。彼は今でも待っているはずだ。淡い期待は潰えても、今なお、待っているはずなのだ。
「…君の、知ったことではないよ。Märchen von Friedhof――最後の童話」
 片手でメルヒェンの手を払い、イドルフリートは再び頁を進める。ため息をついたメルヒェンの言葉は、彼の耳には入らない。
「そうだね、それでも僕は…貴方の側にいるよ。Idolfried Ehrenberg...」
 ――ねぇ、最初の童話。
 虚空に消える言葉。その意味こそ、忘却に捕らわれた彼の、名前だった。






 ――再び頁は進められる。

 酒場でコルテスと会ってから、なんだかんだと理由をつけ、彼はイドルフリートに会いに来た。
 イドルフリートが居る場所はいつも違うのに、何故かコルテスはほぼ毎日のようにイドルフリートを見つけ出した。どこかで見られているのだろうかとも思ったが、そんな視線は感じない。だが、偶然にしては頻回だ。
 その日、コルテスがイドルフリートを見つけたのは夕暮れ時の、港だった。
 大きな船の横で、イドルフリートは水平線を、いや、そのさらに向こうを見据えていた。
「イド、ここにいたのか」
「今日は見つからないと思ったのだがな。私は随分と君を甘く見ていたらしい」
「見直したか」
「逆だ、低能め」
 罵る言葉ではあれど、その声に棘はない。笑顔すら見えるから、少なくとも本気で嫌がっているわけではないのだろう。
「やはり海はいい。海の声は心地良いし、風は背中を押してくれる。星は問えば答えるし、何より自由とは何かを知れるからね」
「航海士、だったんだよな」
「そうだ。空と風を詠み、船を導くために私はいるのだよ」
「航海士、航海士か…」
 どうやらコルテスは、イドルフリートを気に入ったらしい。彼は身分的に下級であれど貴族の出なのだそうだ。コルテスの衣服に質がよいと感じたのは、間違いではなかったようだ。
 それは彼から切り出された話ではあるが、その貴族が新大陸を熱く語るのは、なかなかどうして面白い。
 イドルフリートとて船を操っていた身、そこまで離れた場所へ行くことはなかったが、もっと遠くへとは常々思っていたのも手伝って、気づけば二人は意気投合していた。
 今まで、割と気ままに振る舞ってきたが、何かあるわけではなかった。ここまで来たら、どこまで許されるのか、試してみるのも一興だ。
「イド、イドルフリート。折り入って頼みがある」
「何だい、コルテス。言ってみ給え」
「近々海へ出る。長くなるだろう。…イド、俺と一緒に来てくれないか」
 その頼みは至極当然のもののように感じられた。ほんの数日の会話は、コルテスにその希望を持たせるのには充分だった。
 天候を読み、海の唄を聴き、そして強い。それは技量のこともあったが、何よりもその心が、強い。
 コルテスはイドルフリートに惹かれていたが、イドルフリートもまたコルテスに惹かれていた。
 しばらく悩んだ振りはしたが、その話は聴いた時点で既に答えは決まっていた。
「……そうだな。それもいいかもしれないな」
「本当かっ!恩に着る、イド!」
 ぱぁ、と顔を綻ばせて、コルテスはイドルフリートを抱きしめた。
 初めて受けたそれに、イドルフリートが動揺して肩を押すが、コルテスはそれでも彼を離さない。簡単に押さえ込んでいるところを見ると、この男、抱擁癖でもあるのだろうかとでも思いたくなる。
「ちょっ、コルテスっ!」
 顔を真っ赤にして、イドルフリートは身体を離そうとするが、コルテスの腕力はイドルフリートよりも強かった。
 どう足掻いてもそれから抜け出すことはできそうに無かったので、イドルフリートは諦めて抱きしめられたまま船を見上げる。
「これが、君の船かい?」
「そうだ。これで海を渡る。あとはイド、お前を迎えれば…完璧だ」
「私で…いいのかい?」
「お前がいいんだ」
「……」
 なにやらこっぱずかしい台詞を言われている気がするが、彼はそういう性格なのだろう。今が夕暮れで本当に良かった、とイドルフリートは思う。
 離し給え、とコルテスの肩を押す。さすがに恥ずかしすぎてどうにかなってしまいそうだ。人気はなさそうだが、もし見られていたらと思うと目の前の海に飛び込んでしまいたい。
 しばらく俯いていたイドルフリートがふと口を開く。
「一つ。約束をしよう」
 イドルフリートにとって、これは賭けでもあった。本当は望んではいけないことなのかもしれないけれど、彼がそれを望むのも仕方のないことだった。
 コルテスが不安げにイドルフリートを見る一方で、彼は真っ直ぐにコルテスを見ていた。
「約束?」
「そうだ。…私が、前に進めなくなった時は。君が、先を見せてくれ給え」
 この言葉を彼がどう捉えたかはわからなかったが、コルテスは嬉しそうに破顔して、再びイドルフリートを抱きしめたのだった。
「もちろんだ、イド!」
「コルテスっ!いい加減にし給えっ!」
 日の沈みかけた港に、そんな悲鳴が響き渡った。