虚構の恋2 | ナノ


 ――頁が進められる。


 夜の酒場は良くも悪くも賑やかなものである。
 喧騒の中に身を置くのはあまり好きではないが、酒でも煽りたい気分であったイドルフリートは、酒場の隅で一人、強めの酒を頼み、楽しんでいた。
 いやでも耳に入る雑音は仕方がない。
 金銭的に余裕がないわけでは無かったため、日が沈む前から彼はそこにいる。注文するのは強い酒ばかりな上、決して量を飲んでいないわけではない。しかし、一向に酔う気配を見せないイドルフリートに、酒場の店主は兄ちゃん強いね、と楽しそうに笑って言った。
「どうも酔わないみたいでね。一度くらい酔うという感覚を味わってみたいものさ」
 くすりと笑って、イドルフリートは運ばれた酒をあおる。
 イドルフリートは少量のつまみを肴に、先日の男を思い出していた。
 路地裏の出来事から、数日が経とうとしていた。頬に負った切り傷はとうに癒えた。あの時イドルフリートに助け舟を出した男は、簡素ながらもそれなりに質の良い服を身に纏っていたように見えた。
 あの時は突然のことで、ろくに礼も言えなかった。
 ぼんやりと、あれは誰だったのだろうなあと考えてながら、イドルフリートはナッツを口に放り込む。
 彼が周りも気にせずに思案に耽っていると、いきなり隣の椅子が引かれた。視線だけでそちらを確認すると、ほろ酔いだろう表情で、いかにも海の男です、とでもいう感じの格好と、焼けた肌の男が下卑た笑みでこちらを見ていた。
 どうしてこうも絡まれるのだろうか、イドルフリートが視線を前に戻す。そういえば、数日前のあれも、別に何をしたわけでもないのに、向こうから突っかかってきたのだった。
「兄ちゃん、綺麗なツラしてんなァ」
 そうだ。あの時もこんな感じで。
 確かにイドルフリートの金の髪はこの街では珍しいから、目立つには目立つのだろう。だからと言って、自分の顔がどうかといえば、彼にはわからない。グラスに口を付けたまま、イドルフリートがそんなことを考えていると、ぐいと男が顔を寄せてきたので、あからさまな嫌悪を見せた。
「……近い。離れろ低能」
 じろりとにらむイドルフリートだが、男には関係ないらしい。その視線に見え隠れする下心に、吐き気がする。せっかくの酒も台無しだ。
 しかし、この場にそれを止める者はいない。
「なぁ兄ちゃん、飲み比べでもしないか?」
 ずっと居るのに様子どころか顔色一つ変わらないイドルフリートに、男は彼が水か何か、少なくとも酒を飲んでいるわけではない、と思ったようだ。何故そう思ったかは判らないし、自信があるようにみえるのはアルコールのせいだろうか。ちゃんと頭が回っていないのだ。
 それにしてもこの手の輩は、首を縦に振るまでしつこく言い続けるのだろう。別に飲み比べくらいいくらでもして良かったのだが、イドルフリートは騒がしさに巻き込まれるのが苦手だった。
 できれば話題の中心になどいたくない。彼はそんな男だ。
「………。…条件は」
「おっ、いいねぇ。そうだな、俺が負けたら兄ちゃんの今日の酒代は俺の奢り、兄ちゃんが負けたら、宿まで来てもらおうかな」
 ああやっぱり。そんなことだろうと思った。だからと言って、何をするわけでもないし、飲み比べと言って負けるような失敗はしたことがない。
「…仕方ないな」
 店主にある限りの酒をと告げて、イドルフリートは席を立った。
用意された席につくと、既にギャラリーで溢れかえっていた。この男、言いふらしでもしたのだろうか。強がるなよー、降参するなら今だぞ、などときこえるが、イドルフリートは耳に入れない振りをする。
「では、始めようか」
 微笑んで、イドルフリートが一杯目をあおった。おぉ、という歓声が聴こえる。その声音には意外だ、という色も含まれている気がした。やはり下戸だと思われていたのだろうか。
 いつまでやるのだろうか、惰性で飲み続けてはいるが、12杯目あたりで男の方が酩酊してきたので、このあたりで止めておこうか、と声をかける。
 うにゃうにゃと何か言っているが、まともな返事ができるとは思わないので、彼はそのまま席を立った。勿論、ふらつくこともなければ足がもつれるなどということもない。
「では、私はまだあちらで飲むから、支払いは頼んだよ」
 人の良さそうな笑顔で残酷に告げる。男の懐など知ったことではない。嫌いな話題の中心に引きずりこまれたのだ。そのくらいしても許されよう。
 イドルフリートはなんでもないような澄ました顔で、もといた席に戻っていった。まったく、とんでもないことにつき合わされたものだ。
 仕切り直しだ、とばかりに質の良い酒を注文したところで、今度は肩をたたかれる。またか、と息をついて、後ろを振り返った。
「今度はなんだ………あ」
 振り返った先には見覚えのある男がいて、小さく声を上げた。数日前、イドルフリートが絡まれていた時に助けた男。
 彼が何故ここにいるかはわからないが、目の前にいるのは間違いなくあの時の男だった。
「やっぱりお前か。探したよ。酒、強いんだな」
「…見ていたのか」
「偶然だ。たまたま入ったらお前が飲み比べをしていただけだ。しっかし、顔に似合わずよく飲むんだな」
 そういうと彼は店主に自分の分もと注文した。ここに腰を落ち着けるつもりらしい。屈託のなさそうな笑みで話しかけてくるが、その瞳の奥に、どことなく何かを隠しているようにみえた。
 周囲の喧騒が心なしか静まった気がする。
 彼は探したと言った。何故かはわからないが、その言葉はイドルフリートを警戒させるには充分だった。
「お前さ」
「………イドルフリート」
 口を開いて続きを言う前に、イドルフリートは男に言う。先に名乗ることで、遠まわしに相手に名乗れと促した。男はどことなく嬉しそうに目を細め、イドルフリートの前にあったナッツを手にとった。勝手に、と言う気にはならなかった。
「エルナン・コルテスだ。イドルフリートというのか」
「イドでいい。で、そのコルテスさんが私に何か用かい?先日の事なら、」
「いや、特に用はないよ」
 はい注文の品、と店主が目の前に置いたグラスを手に、コルテスと名乗る男は言った。
「…君は用が無いのに人を探すのかい?」
 訝しむようにイドルフリートが問えば、コルテスはさして気にもせずに口元に笑みを浮かべたまま。
 そういうわけじゃない、とコルテスは言った。
「話をしてみたかった」
「…私と話しても、何もないよ」
「お前、異国の奴だろ?」
「……何故そう思う?」
「流暢なスペイン語だが、どこか違う。訛がある。どこの国だ?」
 イドルフリートはコルテスを見ずに、ひとつため息をついた。それなりにちゃんと話せているつもりで、出身というか、生まれが違うことを見抜かれたことはない。だからどうと言うわけでもないけれど、僅かに話しただけでそれを見抜いてしまうコルテスを、イドルフリートは甘く見ていたのかもしれない。
「…Ehrfurcht wurde empfunden.」
「?ドイツか」
 どうやら語学の方もそれなり、だったようだ。
 彼を信用した訳ではないが、話をするくらいなら面白そうだ、とイドルフリートは思う。
 ここから先は腹のさぐり合いだ。きっとイドルフリートとコルテスは似た者同士で、だからコルテスはイドルフリートと話をしたがったのだろう。
 他愛ない、とりとめのない会話に小さく花を咲かせながら、イドルフリートはコルテスという男を観察した。
 ちらと見るだけでは愛想のよい、無邪気そうな男という印象だけだったが、その腹の底に何かを抱えているということは、容易にわかった。それはおそらく、イドルフリートもそう言う男だからわかることだ。その瞳は器用に本音を隠しているけれど、きっと誰よりも欲深い。
「ところで」
 ふと思い至ったかのように、イドルフリートは話題を変える。先日の事だ。何故彼があの場にいたのか、ふと疑問に思ったのである。
 コルテスは、あぁ、と小さく息を漏らすように呟いて、そのまま考え込んでしまった。何を考える必要があるのか、とも思ったが、大した理由もなかったというところだろうか。
「本当に偶然。ああしたのは気まぐれ」
 仮にも助けようとした相手諸共後頭部に跳び蹴りを決めることが、果たして偶然なのかは理解できないが、それは彼が『助ける』という行為に対して本気ではなかったことの表れでもあるのかもしれない。
 ぼんやりとそんなことを考えていると、コルテスがイドルフリートをまっすぐ捉えて言った。
「イド、お前、強いんだな」
 声のトーンが変わる。品定めでもするような視線。嗚呼、この瞳は苦手だ。
「………どこから見ていたんだい」
「足引っ掛けて転ばせたあたりから」
 ほとんど最初からじゃないか。やはり助ける気などなかったのだとイドルフリートは思う。尤も、助けなど必要なかったはずなのだが。少し失敗してしまったくらいで、どうということはない。傷くらいすぐに癒えるのだし、そもそも彼は。
「傷は、大丈夫なのか」
 見透かしたように、コルテスがそう問いを投げかけた。
 イドルフリートは少しの沈黙のあと、問題ないさ、と呟く。そこからしばらく、どういうわけか沈黙が降りてきてしまった。
 何か話題があるわけでもないし、初対面で親しげに話すこともない。
 しばらくの沈黙の後、手元の酒を飲み干したか、コルテスが席を立つ。何度か頼んでいたはずだが、彼も顔色を変えることはなかったから、それなりに強いのだろう。
 コインを数枚、カウンターの上に置き、座ったままのイドルフリートを見下ろした。
「じゃあ、またな」
 子供をそのまま大きくしたかのような、良い笑顔だった。
 それにイドルフリートは言葉を返さずにいたが、ふと気付いて徐にコルテスを呼び止める。
「コルテス」
「何だ?」
 己が持っていた長めのそれを、彼に向かって放る。片手でしっかりと掴み、コルテスはそれを確認した。
「傘…?」
「今帰るなら、それを持っていき給え。今日は楽しかったよ」
 にこりと笑って、イドルフリートは言う。
 釈然としない表情のまま、コルテスが先に店を出たが、彼がイドルフリートの言葉を理解するのにそう時間はかからなかった。