君が願う物語2 | ナノ


 海面を滑るように、その船は先を見据えて進んだ。大きな航海ではない。いずれ向かうべき夢のための、足掛かりを得るための航海だ。
 イドルフリートが付き従う彼は、その夢を掴むに相応しいと彼自身が判断した人物だ。もともとイドルフリートは、人の上に立つというには不向きだと自分でも認識している。かといって人に従うことも向いているとは思えない。
 彼は自由の代名詞とも言えるほど、奔放だった。そんな彼がコルテスに従うのは、偏にコルテスが、彼に認められただけの話だ。航海士としては類い希なる才能を保持しながら、そしてまた海を望みながら、自分からは動こうとせず、誰の下にもつこうとはしなかった。そんな彼が唯一認め、従う存在。それがエルナン・コルテスだ。
「熱心だな」
 日も沈みきり、ランプの灯がゆらりと揺れる。扉を開けられたことにも、彼が部屋に入ってきたことにも気づかなかった。それほどまでに集中していたのだろうか。イドルフリートは一つ息を吐き、机上の本を閉じた。
 それから向かい合ったコルテスは、どこか心配そうにイドルフリートを見てきた。けれど、その視線の意味がイドルフリートには理解できなくて、小首を傾げる。
「まぁ…ね。そろそろ寝るよ」
「そうか」
「安心し給えよ、君に迷惑は掛けない」
 それでも彼が何かを感づいているのはよく分かったから、ふわりとした笑みを浮かべてイドルフリートはコルテスに言う。彼は複雑そうな表情をしていたけれど、それ以上何かを言うことはなく、早く寝ろよ、とだけ言って部屋を後にした。
 コルテスが部屋の前からもいなくなった事を足音から確認し、イドルフリートはほっと息を吐く。仕事に、航海に支障はない。夜の空いた時間を、メルヒェンのために使っているだけだ。
「メル…君が知りたいと言った、海だよ」
 するりと表紙に指を這わせ、イドルフリートは呟く。そう言ったところで、もちろん返事などある筈もなく、空気の揺れが部屋に響くばかり。
 小さく変化する表情も、抑揚の見られない、けれど確かに嬉しそうな声も、今は何処にも見られない。イドルフリート自身、何故これほどまでに彼に執着しているのか分からなかった。今までは、彼を惹きつけるのは海だけで、海があれば他は何でも良かったはずなのに。
「メル…」
 いくら読めども、そこにイドルフリートの欠片を見つけることは困難だった。メルヒェンの童話として完成されたそれは、入り込む余地など何処にもない。勢いで持ってきてしまったものの、そこから先、どうすれば良いかというのは全く考えが及んでいなかった。
 ぺらり、と頁をめくる。伏せた目に浮かぶのは、彼があの宵闇の森で、一人たたずむ情景。暁光は迎えたものの、時は止まり、彼は其処から動く事は出来ない。そんな、とても寂しい光景。
 徐にペンを取ったイドルフリートは既に記述された頁へペンを走らせる。インクはまだ出るはずなのに、そこに文字が書き込まれることはなかった。
 やはりか、とイドルフリートが吐いた溜息は、己の鼓膜を揺らすだけに止まった。もう、随分前に取ろうとした手法だ。記述を書き換えてしまえば、彼を助けられるのではないかと思った。しかし、まるで改竄は許さないと言うかのように、何度書こうとしても、ペン先の傷一つつけることは叶わなかったのだ。
 ペンを戻し、腕の中に顔を伏せる。せめて夢の中で、彼に会えることを願いながら、イドルフリートは目を閉じた。



 暗い、何もない場所だった。また井戸にでも堕ちたか、と思ったが、どうやらそうでもないらしい。
「おや?」
 そして、私一人だけかと思っていた事も、間違いだったようで、背中からかけられた私以外の声に反応して振り返った。そこにいたのは、置き去りにしてしまった筈の彼の姿。
よもや、本当に来てくれるなど、思ってもみなかった。だからこれは夢なのだと、私ははっきり確信した。
「メルヒェン?」
 そう呼べば彼は、何処か困ったように笑った。返事はなかった。
「私は、貴方の言う『メルヒェン』ではないよ。『メル』ではあるけれどね」
 そう告げられた言葉が、いまいちよく分からなかった。しかし、よく見れば衣装も違うし、どこか纏う雰囲気も異なっているように思えた。顔の造形も、髪色も、目の色も同じだというのに、メルヒェンとは違うと言う。
 なんと返したらよいか分からなくて、私がその場に立ち尽くしていると、彼、メルはくすりと笑みをこぼして、その場に座った。
「まぁ、座ったらどうだい」
 ぽんぽん、と目の前を叩くように促され、私はそのまま、促されるままに腰を下ろす。メルの姿が近くなって、やはり似ていると改めて感じる。
「君は何なんだい」
「私は…そうだね。最初のメル、と言えば聞こえはいいかな」
「最初のメル…?」
「そう。貴方の探す『メルヒェン』は、言うなれば最後のメルだ」
 言っていることがわからない。何を言っているんだとじとりと彼をみると、メルは苦笑しながら降参するように手を上げた。嗚呼、彼はメルヒェンとは違う。メルヒェンはこんな仕草はしない。
「貴方が、あのメルに『Märchen von Friedhof』と名付けたから、物語は自動で先に進まなくなったのさ」
「何故だ」
「Friedhof…つまり墓場、人生の終わり、最後…」
「最後の、童話…」
 私が漏らした言葉に、メルは笑みを深くした。まるで正解だ、とでも言いたげだ。
「それが幸か不幸か、それは読む人が決めることだけれど、少なくとも私は感謝しているよ。もう、飽き飽きしていたからね」
 心底疲れた、と言うようにメルは何も見えない空を仰ぐ。否、見えないのは私だけで、彼には何か見えているのかもしれない。
しばらくして再度向き直った彼は、やはり笑みをたたえたまま。
「だから、お礼に教えて上げよう。メルヒェンは、誰かの衝動を核に作られた登場人物だ。物語の中だけで存在することを許される」
「……!では、」
「貴方と同じ世界を、生きることは出来ない」
 笑顔のまま告げられた言葉に、私は愕然とした。続けざまに、それは彼も知っていたはずだがね、と言われ、あの時何故メルヒェンが泣きそうな顔をしていたのは、そういう理由だったのか、と知った。
 同時に、メルヒェンが私の手を振り払った理由もなんとなく見えて、私は目を伏せた。
「続かない物語は永遠に停滞するのさ。私は既に舞台を降りた身だが、メルヒェンは違う。まだ舞台に立たされたままだ」
「…どうしたらいい」
「さっき言わなかったかな、彼は舞台の上でしか生きられない」
「だから、どうしたらいいと訊いている!」
 立ち上がり声を荒げた私に、メルは目を瞬かせ、驚いたようにこちらを見ている。その視線を受けて、大きな声を上げてしまったと知った私は、すまない、と一言告げ、再度腰を落ち着かせた。
「貴方のような人が策者で、メルヒェンは幸せだね」
 メルの、どこか慈しむような視線に、私は何故だか申し訳なくなり、もう一度謝罪を繰り返す。
 嗚呼、いやに意識のはっきりした夢だ。真っ暗な中、私と彼だけが存在する。井戸の底で、真実を突きつけられるような、嫌な夢だ。
「さて、時間かな」
 よっこいせ、と腰を上げるメルに手を伸ばす前に、私の手は制される。
「私はもう往くけれど、貴方もここで留まっていてはいけないよ。ここは単なる頁の狭間。貴方がここにいることは、メルヒェンの本意ではないのだからね」
「メル!おい待て、私は、まだ!」
「嗚呼そうだ。最後に一つ。目が覚めたら、物語の終わりを黒く塗るといい。いいね?絶対だよ?」
 彼はこちらが止めるのにも構わず、闇に紛れて往ってしまった。メルを止めるために伸ばしたはずの腕は、役目を果たせずに拳を作るに終わる。
 不意に視界の隅に光が差して、嗚呼夜が明けるのか、と何とはなしに思った。ここも光に包まれて、私はそうして目が覚めるのだ。あのときと同じように。
 光が溢れる先、見やる其処に、光の渦の中心に、また影が映る。ふわりと揺れる宵闇の髪、見知った衣装。
「メルヒェン……!」
 先ほどと同じように手を伸ばすが、しかし嗚呼、またそれは叶わない。私の声に反応したのか、聞こえたのか、メルヒェンが振り返って、そこで私の意識は、またも光に塗りつぶされた。



「ん…」
 陽の光が容赦なく顔に照りつけて、その眩しさにイドルフリートは目を覚ました。
 夢を見た。それは確かだ。夢の内容など、ここ数年は起きれば忘れてしまうことばかりだったのに、今回の夢はこれほどまでにしっかりと記憶に残っている。
 ぐわんぐわんと、二日酔いのように揺れる思考。寝ていたはずなのに、まったく眠ったようには思えない。どうやら本に伏して寝ていたようで、涎で彼の本を汚すことは無かったが、イドルフリートの頬にはしっかりとその痕がついていた。
「……」
 何かを考えるように、イドルフリートはしばらく本を眺めていたが、何かに思い至ったかのように、暁光の次の頁を開いて、其処に黒いインクを垂らした。きっとこれも、何もないんだろうと思いながら、指でその黒を広げていく。自分の指が汚れることなど、お構いなしだった。
「…っ」
 じわりと広がる漆黒。あの森の空に似た色。こんなことをして、何の意味がある。黒く塗れと言われたからしたことだが、所詮夢のことだ。
 では、全部夢だったのだろうか。メルヒェンがいたことも、メルがいたことも。この本すら、夢なのだろうか。
「ふふ…あはは…」
 乾いた笑いが漏れる。なにやら急に虚しくなってきた。どうせこの黒も、何事も無かったように捌けていくに違いない。
 そう思った。思った通りに、インクは捌け、白に戻っていく。やはりか、と思い閉じようとした頁上に、残るものがあった。
「文字…?」
 か細い、お世辞にも綺麗とはいえない文字だった。
「……『君へ』?」
 やがて浮かび上がるのは、誰かへと宛てた、伝言。
 それは、紛れもない、彼のもの。
『君へ。今も僕を想ってくれる、名も知らない君へ。
 僕はもう何も分からないのだけれど、君はきっと約束を果たせないことを悔やんでくれているのでしょう。
 けれどそれは、仕方のないことなのだから、君が気に病む必要はないのです。
 この世界が全ての僕には、もう君の名前を思い出すことはできないし、君の隣へ立つことはできないけれど、君がくれた名前も、知識としての世界も、全てが嬉しかったのです。
 僕は童話に過ぎない。君の側へ行くことはできない。君は、生きているから。
 それでも、君が僕の策者で、本当によかった。叶うならば、こんな物語のことなど忘れて、どうか、幸せになってください。
    ――Märchen von Friedhof』
 短く拙い、伝言だった。
「うぁ、あああ、あぁ、…」
 ぽたりと紙に落ちるそれも、滲むことなく滑っていく。メル、メル、と譫言のように言葉はとめどなく溢れ、イドルフリートはただ本を抱きしめて泣いた。
「君は、本当に。…そちらの世界の、人なんだね…」
 信じたくなかった。惹かれたのはきっと、その純粋さ故、無垢さ故だ。それは、イドルフリートが遙か遠くに置いてきてしまったもの。その幼さは、庇護欲をかき立て、いつしかそれは愛情へと変貌した。それが歪んでいないとは言い切れないが、それでも確かに、イドルフリートはメルヒェンに惹かれていた。
「……?」
 ふとイドルフリートは次の頁の片隅がインクで汚れていることに気づく。絶対に黒に染まることはないと思っていた頁に、僅かながらだが汚れがついていた。
 まさかと思い、イドルフリートがペンを取る。さらさらとそれを走らせれば、記述される、白紙の頁。書物は改竄を許さない。そして、物語は独りでに動き出さない。ならば、その続きであったなら。
 海色の瞳から、また一滴、涙がこぼれ落ちた。
「『君へ』」
 震える声で伝える、メルヒェンへの伝言。
『君へ。今も私を想ってくれる君へ。
 君を世界へ連れ出すことは叶わなかった。約束を果たせずに申し訳なく思う。
 今から私がしようとしていることが、君に取って幸せかどうかは、いつか君が判断して欲しい。
 君が私を忘れても、私は君を忘れない。
 愛しい愛しい、私の童話へ。
 君が幸せで在れるように、私は続きを綴ります。君が、自由で在れるように。
    ――Idolfried』
 童話としてではなく、一個の人格として、メルヒェンが幸せで在れることを願う。彼がイドルフリートの幸せを願ってくれたように、彼もまた、メルヒェンを想ってペンを取った。
 描き出すそれは、豊かな森。光溢れる、暖かな森。色とりどりの花、動物達。母も、幼なじみも、彼が一人ではないように、イドルフリートはただひたすらに、その続きを書いた。どれだけ時間が経とうとも、ただひたすらに、彼を想って描き続けた。
 そして。



 数年の時が経ち、彼はまた、その森の教会にいた。どれだけ時を経ようとも、不思議とその教会と井戸は朽ちた様子がなかった。
 ペンだこのできた手で、愛おしむように本の表紙を撫でる。それから、その本があった机へ、そっとそれを置いた。
「メル、私は、海を渡るんだ」
 まるで言い聞かせるような、優しげな声音が、風に紛れて消える。イドルフリートの本を見つめる視線も、どこか穏やかだった。
「もう、戻らないと思う。本当は君を連れて行きたいのだけれど、何があるかは分からないからね。君を喪うのは、とてもじゃないが耐えられない」
 一歩足を引いて、イドルフリートは一つ笑う。これが最後ではないと、自分にも言い聞かせるように。
「だから、君とはここでお別れだ」
 自分が本を持って行けば、メルヒェンを喪う危険は高くなる。何せ今から彼が向かうのは未開の地、何が待っているかは分からない。そんな危険を侵してまでメルヒェンを連れて行くよりは、この場で静かに、眠らせてやった方が、彼の為だと思った。
 いつかまた、彼を考えてくれる人は必ず現れる。イドルフリートが持っていたのでは、その可能性すら無くなるかもしれない。ならばその時まで、静かに眠らせてやる方がいい。
「ではな、メル」
 決意が鈍らぬ内に踵を、外へと続く扉を開ける。ざぁ、と一瞬風が強く吹いた。
『イド』
 不意に聞こえた声に、イドルフリートは振り返る。しかしそこには何もなく、ただ本があるだけ。けれどもやはり、イドルフリートには彼が其処にいるように思えて、一度だけ歩みを止めた。
「…またな、メル」
 泣きそうになるのをこらえて、イドルフリートがそう口にすれば、ふわりと空気が揺れ、彼が笑ったように見えた。
 幻聴だったのかもしれない。二度とその声が聞こえることはなかったけれど、イドルフリートには、何よりも背を押してくれる声に違いはなかった。
 そしてその後、イドルフリートの消息を知る者はない。



 彼らが生きた時代から、どれだけ時間が流れただろうか。彼の本は廻り巡って、やがて一人の男の下へと辿り着く。その思想をくみ取り、物語を紡ぐという類い希なる才は、人々の心を掴み、一つの国ができるほどとなっていた。
「ねぇイヴェくん」
「如何されましたか、陛下」
 銀髪を後ろで束ね、頬に太陽と月の紋を持つ青年が、彼の声に応じて返す。青年、イヴェールは、彼を守るためにここにいる、彼の一番の臣下だ。彼によって世に顕在する、彼の似て非なる者としては、一番に彼を慕い敬っているとイヴェールは常日頃から言っていた。
「メルくんを呼んできてくれないかい?」
「メルくんですか?わかりました」
 そうしてイヴェールが彼の執務室を後にし、膝に置いた本を開いた。『光と闇の童話』それは、かつて誰かが書いた物語。7番目の地平線としてこの地に彼が顕した物語。その屍揮者としてメルヒェンは、今この城に住んでいる。何番目かの、彼の似て非なる者としてだ。
 彼が本を開いた先、伝言の応酬の後に所狭しと書かれた、光溢れる森の情景。確かに其処には、愛が在った。
「メルくんは、幸せだと思うよ。ねぇ…」
 独り言のようにそう呟いた時、コンコン、と扉をノックする音が小さく響いた。どうぞ、と言葉を掛ければ、控えめに扉が開き、先ほどイヴェールに頼んで呼んでもらった人物が入ってくる。
 漆黒に降りる月の光のような銀色、いくつかの房をつくるそれと、満月のような瞳。死んだような顔色の彼は、その本の記述のままに描き出した姿だった。
「御機嫌よう、王様。何の用だい?」
 些か不機嫌そうに見えるそれも、発する声に抑揚がない故のこと。表情が動くことも少なく、彼の感情を読みとることは、深く彼を知らねば困難だ。
 そして今は、本当に機嫌はそこまでよろしくない。イヴェールが戻ってこないのも、それ故だろう。
「うん。実はねメルくん。君に、迎えに行って欲しい人が居るんだ」
 ちょっと僕手が離せなくて、と言えば、反発するつもりはないのか、溜め息の後、一言だけJa.と言った。
「ありがとうメルくん。場所は、君が居た教会だよ。行けばきっと、誰かはわかるから」
 笑ってそう言えば、メルヒェンは不可解そうに少しだけ眉を動かす。けれどそれ以上は何も言わずに、踵を返して部屋から出て行った。
「………ふぅ」
 困ったことに、彼はまだあまりここに馴染めてはいない。心の扉を開くまでが少し長い。けれど、特定の人物には素直に心を開いていた。例えば、第6の地平線のエレフセウスなどは良い例で、彼の言葉は割と聞き入れる節がある。
「へ、陛下…?」
 ひょっこりと顔を覗かせたイヴェールは、ビクビクとどこか怯えたように部屋を見渡す。呼びに行った先で何をされたかはわからないが、彼もそこまで距離を置かれているわけではなく、むしろ好意の裏返しというやつだろう。
「あぁイヴェくん。ご苦労様」
「もう、メルくんはいませんか…?」
「あはは、そんなに怯えなくても大丈夫だよ」
 メルヒェンがいないことを確認して、イヴェールは安堵したように部屋に入ってきた。逆に、この子がここまで怯えるというのも珍しいな、と考えながら。
「メルくんは?」
「ん、ちょっと人を迎えにね」
「人……?」
「そう、『Ehrenberg』、をね」
 少しだけ視線を落としてそう言った彼に首を傾げながら、イヴェールは窓の外を見た。其処には、以前と変わらぬ様子で、森の中に小さく教会が佇んでいた。



「人使いが荒いね、陛下は」
 かさりかさりと音を立てながら、メルヒェンは教会へ向けて足を進めていた。心配するエリーゼも部屋へ置いてきてしまったから、何か言葉を発そうとも、それに帰る声はない。
 ざぁ、と風が吹く。ここにいたのは、まだ少し前のことの筈なのに、嫌に懐かしく感じた。そう感じられるほど、城での時間は濃密で楽しかった。
 難点と言えば、メルヒェン自身が、その楽しいという感情を表に出すことが苦手なことくらいだろうか。
「君は、ここにいないのにね」
 メルヒェンに名を与え、知識を与えた彼。名前も思い出せない彼。彼だったら、その仕方も教えてくれるのだろうか。などと、そんなことを考えながら、メルヒェンはただ歩みを進めた。
 そうして辿り着いた教会には、誰の気配もなく。
「迎えに…って、誰もいないじゃないか」
 騙されたか、と肩を落として城に戻ろうとした先、かさりと、風に揺られるのとは明らかに違う音が聴こえて、メルヒェンは背後をみた。
 その視界、揺れる金糸、ぼんやりと空を眺める視線は海色を湛えたまま。メルヒェンの中に、一度は消えた記述が蘇る。
「ぁ、あぁ、」
 言葉にならない。宵闇の森に、幸せをくれたひと。
「い、ど」
 思い出した名前は、衝動にも似ていた。名前が漏れたことで、彼がゆっくりと空からメルヒェンに意識を遷す。
 驚愕に見開かれる瞳。その間には、風すらも入る余地はなく、音も消え去ったように、互いに見合ったまま、動けない。
「…メル?本当に、メルなのかい?」
 彼は、忘れてなどいなかった。伸ばされた手をすり抜けて、メルヒェンはイドルフリートに抱きついた。その拍子に倒れ込む彼に構わず、かつて井戸の底でそうしたように、イドルフリートの胸に頬を擦り寄せる。その感覚は、二度と得られないと思っていたもの。
「イド、イド…イド、」
 何度も名を呼ぶ、まるで迷子から見つけだされたような様子のメルヒェンの髪を、イドルフリートはくしゃりと撫でた。
 光溢れる森の中、花々は咲き、動物達が喜ぶ森の中。
「ねぇイド、僕は、幸せだよ、倖せ、だったよ」
 得られた独り善がりの答えに、イドルフリートは目を見開いて、それからまた一つ抱きしめる。髪に鼻先を埋めれば、以前とは違い、死臭はしなかった。代わりに漂う、甘い花の香り。
「それは良かった。ありがとう、私の屍揮者…」




 永遠にも似た時間を超えて、また二人は、舞台上で邂逅する。
 けれどもう二度と、離れることはないだろう。




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愛しい愛しい、僕の策者。


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2012.5.27