懐郷の箱4 | ナノ


 イドルフリートには、メルヒェンが泣き喚こうがよがり狂おうが関係がなかった。堅く結ばれた紐が、メルヒェンの手首に食い込む。痛みはあるだろうが、彼にもそれは分からないことのようだった。
「あ、あぁ、ん、やぁ…!」
 勿論逃がすつもりなどはこれっぽっちもない。彼が本当に逃げるつもりだったのかも関係ない。
 今までは抑えつけられていた欲は、一度解放されれば留まることを知らず、ただ溢れるばかりだった。
「や、やだっ、やだぁ…!ひぁ……!」
 甘い声、鳴る水音、皮膚を叩く音。部屋に満ちる響きが、さらにイドルフリートを高めていく。
「嫌だなどと…嘘は良くないよ、メル…っ」
「ひぃ、ん、っぁあ!!」
「前はあんなに悦んでいたじゃないか…!」
 逃がさないように腰を掴んで、繰り返すのは後孔への抽挿。性急なものでしかなかった慣らしのために、赤い筋が滴っている。
 初めこそ反応しなかった身体も、愛撫が進むにつれて次第に色づき始め、今ではイドルフリートが何を言っているのかわからない程度には、快楽に溺れていた。
「ふふ…!」
 弧を描く口元は、さながら上弦の月。
「逃がすものか、メル…!」
 愉悦に細められる瞳の色は、歓喜に満ちている。
「君は…!私のモノだ…!!」
 形の良い唇から紡がれる、狂気に満ちた言葉たち。
 秘められた場所へ腰を遣りながら、イドルフリートはメルヒェンへと語り続けた。決壊した理性の檻は、自力では組み直せない。
 相手の事など考えない、自分本位の行為。メルヒェンがやや意識を飛ばし、発する声が途絶え途絶えになっていることも、イドルフリートの思考に足る事ではなかった。
「はっ………ぁ………」
「メルヒェン……!」
 肩に掲げた足をそのままに、イドルフリートはだらしなく蜜をこぼし続けるメルヒェンのそこに指を這わせた。
「ぁっ…!」
 跳ね上がる足は、何の意味もなさない。背筋に走る、えもいわれぬその感覚に、メルヒェンが一瞬理性を取り戻したように見えた。
「ゃっ…、ぁあ!!」
 しかし、それを許さないようにさらに奥を抉られ、見せようとした抵抗は容易に封じられてしまう。
「メル、メル…いいだろう…っ?」
 メルヒェンの声の甘さに酔うように、イドルフリートが彼の唇を塞いだ。咥内を蹂躙し、吐息を奪いながら、イドルフリートはメルヒェンにおぼれていく。
「ぁ、ふぁ…んっ……!」
 その間も、彼自身を愛でる指は止まらない。
「やっぁぁあ!……ぁ、ぅああ!」
 既に焦点は合っておらず、どこを見ているのかはわからない。いや、どこも見ていないのかもしれない。
 強制的に高められた熱は解放を望み、すがりつくように溢れる声が高くなっていく。
 流れる涙は生理的なものか、イドルフリートは舌先でそれを掬いながら、最奥を突くと同時に鈴口に爪を立てる。
「ぁぁああああっ!!!」
「っ…」
 それが決め手となったか、メルヒェンは一際高く声を上げ、白濁した蜜を吐き出した。と同時に、収縮する後孔に締め付けられ、イドルフリートもまた、メルヒェンのなかに欲を放ったのだった。
「はっ…はぁ…んっ…」
「メル、メル………………」
 ぐったりと弛緩したメルヒェンの身体を抱き締めながら呟かれた言葉は、ただ虚空に混ざり、溶けて消えた。




 どれだけ時間が経ったのか、どれだけ経てば解放されるのか、それはわからない。視界は真っ暗で、手足は動けない。聴覚は残っているけれど、今の音もよくわからない。
 波のように押し寄せる刺激にも、身体を動かすことは出来ず、ただ翻弄されるだけだった。
「はっ……はぁっ…っぁ」
 何かが震えるような音、襲い来る背筋に走る感覚。それを快感と、メルヒェンは認識できているだろうか。
「あぁぁ…!」
 動かない身体が、大きく跳ねた。ぎり、と手足に食い込む。何度目かの絶頂を迎えたようだったが、そんなこともわからないくらい、思考は麻痺していた。
 だが、見えない感覚にはどこか覚えがある。どこで経験したのか、それを思い出すことが出来ない。
 彼の触れる手つきにも、その双眸の狂ったような熱にも同様に。
 霞がかっているような記憶の断片を手繰り寄せるのは、今はやや困難とも思えた。時折痙攣したように跳ねる足が、メルヒェンが既に限界近いことを知らせている。
(なんで、なん……、で…)
 見えないメルヒェンには、彼が今どこにいるのかもわからない。この場にはいないのかも分からないし、あるいはすぐそばにいて、メルヒェンを観察しているのかもしれない。
 無機質な、彼の体温で熱を持つものが、胎内で暴れ回るようだった。
(いやだ…こんなのは……!)
 優しく触れる手を、髪を撫でる手を、慈しむような眼差しを、壊れ物を扱うかのような唇を、狂おしい程の熱を。あれは、何だったのか。
「うぁぁ…ぁ……んんっ!……ぁ…」
 届きそうな記憶の一端に触れる前に、無遠慮に蠢いていた後孔の玩具が取り去られた。無意識の内に物足りなさを感じたのか、ひくり、と歪むのが見て取れた。
 未だに視界を奪われているメルヒェンには、それはあまりにも突然で、いつの間に彼が傍に来たのかも、まったくわからなかった。
「独りだけ、楽しんでいるのは良くないな」
「ぁっ…」
 耳元で笑みを含んだ調子で囁かれ、メルヒェンの背筋がぞわりと粟立った。それは、どこか待ち望んだ声だったから。
「んっ…ぁ…」
 ちゅ、とだらしなく唾液をこぼす唇に、触れるだけのキスをされ、同時に今まで玩具が入れられていた場所に、もっと熱いものが押し当てられた。期待にも似た声が上がる。
「あっああ!」
 ず、と抵抗もなく、メルヒェンの身体は彼を素直に受け入れる。
「メル……っ」
 その感覚には、やはり覚えがあった。繰り返す抽挿に、強制的に身体を揺さぶられながら、メルヒェンは風に揺れる糸を掴むように、埋もれた記憶に手を伸ばす。
 優しく強い母、光のない温もり、少女への恋、森の井戸。
 殺意を唄う人形、狂気へ誘う月の光、繰り返される復讐劇、モリのイド。
 死へ至る衝動、井戸の先客、引き金の言葉。
「愛、している…!」
 その感情の名前は。
「あ、あぁ…ぃ……ど、…」
 小さく呟かれた言葉に、彼が動きを止めた。驚愕と歓喜に染まる瞳が、そこにあることをメルヒェンは知らなかったが、確かにあるその温もりに手を伸ばそうと、拘束されたままの腕を動かした。
 取り払われた、視界を覆うもの。急に明るくなったためか、メルヒェンが眩しさに目を細める。次いで映り込んだのは、変わらぬ金と、どこか泣きそうな碧い蒼だった。
「メル…?」
「い、ど…、イド…!」
 次いで手足の拘束を外され、ぎしりと関節が痛んだ。それを気にすることなく、メルヒェンは彼の背に手を回す。
「憶い、出した…のかい?」
「イド、イドルフリート…嗚呼、イド…!」
 止め処なく溢れるそれは、紛れもない彼の名前。
 イドルフリートはようやく訪れた再会に、強くメルヒェンを抱き締める。もう離すまいとするかのように。
「イド、イド、ごめんなさい、ごめんなさい…!」
 母の愛を亡くしたメルヒェンに、失ったそれをくれたのはイドルフリートだった。それなのに忘れてしまっていただなんて、イドルフリートを裏切り続けていただなんて。ぎゅう、とメルヒェンは込められるだけの力を腕に込めた。
「いいんだ、いいんだよ、メル…これからはずっと一緒だ」
「ん、イド…、嗚呼、やっと名前を呼べる…」
 どこか恍惚とした、光のぼやけた月のような瞳を見て、イドルフリートもまた浮かされたように目を細めて笑った。
 そしてそのまま、どちらからともなく唇を重ねる。舌を絡め、互いに口腔を余すところなく味わった。抜けるような吐息と甘い声が、やや粘質の水音に混ざって響く。
「ん、ふっ…ぁっ…」
 その間もイドルフリート自身はメルヒェンの胎内に入ったままで、そのまま彼はメルヒェンを易々と抱き上げ、ベッドに横たえさせた。
「続き、してもいいかい?」
 唇を離しざま、そう問えば、ふふ、と笑う声がした。銀に光る糸が、二人を繋ぐ。
「珍しいね、んっ…貴方がそう、問うなどと」
「久しぶりだからね。たまにはいいだろう?」
「ひぁっ…ぁ、良いよ、イド、早く欲しい…」
 メルヒェンが発した言葉に、返事はない。返事の変わりに、止めていた動きを再開させた。今までの分を取り戻すように、イドルフリートはメルヒェンを貪った。貪欲にただ、メルヒェンを愛した。
「ぁ、んぁ、ゃ…ぁう……イド、いど…!」
 メルヒェンもまた、その記憶を重ねるように、イドルフリートを求めた。甘くくすぶる疼きが、メルヒェンを犯していく。
「愛している、メル…!」
「ん…ぁあ、あ、僕、も…」
 それがどの愛なのか、かつてのメルヒェンにも分からなかったが、イドルフリートから与えられる温もりだけを頼りに、メルヒェンはただ溺れた。
 慕い慕われ、愛し愛され、ようやく己の童話を取り戻したイドルフリートは、どこか壊れたように笑った。




「メル…」
「ん、何、イド」
「愛している」
「僕も…」
「もう、どこにも往かないでくれ給え…」
「言われずとも、ずっと、貴方の傍にいるよ」
 幾度目かの問いかけ。互いの不安をかき消すように繰り返されるそれは、時に流されることなく続く。

 締め切られたはずの室内で、ゆらりとカーテンが揺れた。



Ende.




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パンドラの匣に似て

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2012.3.11