懐郷の箱3 | ナノ


 大切な事を忘れている気がする。金が綺麗な髪の人に名を呼ばれてから、時折ずぐりと脳の芯が痛む。
「何だろう…」
 もう一度会えれば、何か分かるだろうか。そう思って何度か前を通って見たが、以来あの人に会うことはなかった。
 例えるならば、海。太陽のような髪からちらりと覗く碧が、まるで朝日に輝く海のごとく広がっているようだった。
 知り合いでもなく、名前すら知らない自分が、見舞いなどというのはおかしな話だ。こうして通っていれば、いつか会えるだろうか。窓のどこかに、彼の姿を探す。
 会いたいと思うのに理由などはなかった。いや、あるのだろうが、メルヒェンにはわからなかった。
 嗚呼、今日も会えなかった。地面に視線を落として、また歩き出す。ここに立ち寄れるのは、わずかな時間しかない。
 特に何をしているわけでもない。すでに身寄りらしい身寄りはないし、働いている訳でもない。母の遺したものを、食いつぶしているだけ。もちろんそれではいけないことくらい、メルヒェンにも分かっているのだが。
(何をしたらいいんだろう…)
 自分の置かれている状況に一つ溜め息をついて、メルヒェンは家に帰ろうと髪を翻した。
 途端、背後に感じる気配と、呼ばれる名前。その意味に気づく前に、何があったのかを悟る前に、メルヒェンの眼前は真っ暗になる。ふふ、と笑う声が、やけに鮮明に耳に残った。



 落ちた意識の覚醒と共に、視界が拓かれて見知らぬ天井が網膜に焼きついた。
「……?」
 身体が痛いことも、寒さに震えることもない。どうやらしっかりと寝所に寝かされ、掛け布もあるようだ。
(ここは…?)
 身体を起こして辺りを見回すが、心当たりもない。寝起きだからか、思考もぼんやりとして頭が働かない。
 ベッド以外何もない部屋だった。明かりとり用の小さな窓にも鉄格子がはめられ、そこからは空模様しか伺えない。
 窓とは正反対の位置にあるドアの向こうは、どうなっているのだろう。人の気配など伺えない。構造も、高さも、場所も、何もわからない。わかるのは、この部屋の広さだけ。
 一度はベッドから降りて立ち上がったものの、何をする気も起きなくて、ぽすり、とベッドの縁に腰を下ろす。
「……」
 どうしたら、よいのだろうか。
 事態を深刻に捉えられないメルヒェンは、ただぼんやりと虚空を見つめたままだ。
「おなか…すいたなあ…」
 そういえば、何も食べていない。ぐぅ、と鳴って食べ物を強請る胃袋にも、何も与えてやれない。こんなにも何も置いていない部屋では、食べ物など期待できそうもない。
 扉の向こうには何かあるのだろうか。それでも動く気にはなれず、何となく扉を眺めていたら、やや硬質な音を立ててドアノブが回された。
「!!」
「おや、起きていたのかい?メル」
「貴方は…」
 緩やかに微笑むのは、あの日と寸分変わらぬ金の髪と海の瞳。上弦を描く薄い唇で、名を紡ぐ。
 彼を呼ぼうにも、メルヒェンは彼の名を知らなかった。名前を知らないというのは、酷く不便だ。
「此処は何処?貴方は一体…」
「そんなことはどうでもいいじゃないか。其れより腹は減ってないか?作ったんだが…」
「………」
 見れば彼の手には、湯気を立たせる食事があった。
 しかし、優しげな表情を見せてくるとは言え、知らぬ相手から無条件で差し出される食事を口にする気は起きなくて、メルヒェンはただ彼を見上げる。
 訝しげな視線を向けられて、彼はくすりと困ったように笑った。困惑しているのはこちらの方だ。
 気に掛けられているのはわかったし、彼は自分を知っているらしいのもわかった。けれどメルヒェンは彼のことなどわからないし、会っていたとしても覚えていない。
「せめて、名前だけでも教えてほしいのだけど」
「それはじきに思い出すさ。ほら、食べ給え」
 ずい、とトレイごと差し出されて、メルヒェンはそれを断る術など持たなくて、けれどそれを口にする気も起きなくて、動かないままでそれを見つめる。
 確かに腹は減っているし、いい匂いが食欲をそそる。
 やがて何もしないメルヒェンに業を煮やしたのか、銀のスプーンを取った彼は、器に差し入れ、自らそれを食べた。それから、やはりにこりと笑んで、何もないよ、と言った。
「何も入れてなどいないから。食べ給えよ」
 口元に運ばれたスプーンを、そろりと、恐る恐る、口にする。あたたかなそれが、口内に広がった。
「…おいしい」
 嚥下するのを確認した彼は、とても嬉しそうに笑う。ぽすぽすと撫でているのか叩いているのかわからない風に触れられて、メルヒェンは黙ったまま、彼を見上げた。
 口の中には、まだその味が残っている。口から出た言葉は素直な感情からだった。おいしいにはおいしいのだけれど、何故彼が自分に固執するのかわからなくて、やはり不安は残る。
「貴方は何がしたいんだい?」
 答えは無かった。
 メルヒェンは座ったまま、彼は立ったまま。自然と上目になる視線を、碧い目が見返す。しばらくそのまま、互いの息遣いさえ聴こえず、メルヒェンは居心地の悪さから、僅かに身じろぎをした。ふ、と逸らそうとするメルヒェンの視線を固定するように顎を捕られて、やはり彼から目が離せなくなってしまう。
 彼の表情は、にこやかではあるけれど、何か底知れないものが感じられた。一言で表すならばそれは、畏怖。
「え、と…?」
「君は此処にいればいい。絶対に外に出てはいけないよ。この家の中では自由にしていいけれど、外にだけは出てはいけない。何、生活に必要なことはすべて私が用意するから、安心し給え」
 その表情は変えないままに、彼は何でもない風に平然とそう言い放った。
「どうして…?」
「どうして?異な事を言うね?私がこんなに君を想っているのに、君は気付いていないのかい…?メルヒェン」
 両の腕に閉じ込められるように頭を抱えられて、メルヒェンは反射的に身体を強ばらせた。彼もそれに気づいたか、メルヒェンの見えないところで笑みを深くする。
 ふわりと、壊れ物に触れるような感覚で、彼はメルヒェンを抱きしめた。視界を金が覆う。
「ずっと、ずぅっと捜していたんだ。会いたかったよ、メルヒェン…
 だから、もうどこにも往かないでくれ給えよ…?」
 その言葉は、声色は、まるで鎖のようにメルヒェンを縛り支配する。どこか滲んでいるように見える狂気は、メルヒェンを怯えさせるには充分すぎた。
 日が傾ぐ。抱く腕に僅かに力を込めて、彼はただ笑っていた。



 メルヒェンの生活は、それから文字通り一変した。
 家の中は自由にしていいと言われたが、彼はその部屋から動くことはほぼ無かった。
 食事は毎回彼が運んでいたし、何かしろと言われるわけでもない。けれど、向けられる視線、声色に含まれる狂気が、メルヒェンを畏縮させ、知らない場所で、知らない人と、怯えながら暮らすのは、彼は精神を疲弊させた。
 それと同様に、イドルフリートの生活も変わっていった。
 それが現実か幻想か、すでに区別などついておらず、メルヒェンがそこにいるという事実だけが、彼を昂揚させた。
 メルヒェンはすべてを忘れているが、自分といれば思い出すはずだ。彼の行動原理はそれが殆どだった。
 額に唇を寄せても、メルヒェンは文句一つ言わない。衝動のままに身体を掻き抱いても良いのだけれど、まだそれをするには早いように思えた。
「まだ、思い出さないのかい」
「わからないよ…ねぇ、貴方は何がしたいの」
「ふふ…」
 何度訊いても、それに対する回答はなく、ただ笑みを深めるだけ。忘れている気はするのだけど、それが何なのかはわからない。それを思い出せ、というのだろうか。
 イドルフリートはメルヒェンの顔中にキスを降らせながら、彼がいることに、ただそれだけのことに悦楽を覚えた。次第にエスカレートする行為を、止める術など持たないメルヒェンには、ただ悦ぶイドルフリートの顔色を伺うしかない。
 静かな海を思わせる瞳が、その奥に激情を隠していることは、まだ誰も知らなかった。




 扉を開けたのは、好奇心でしかなかった。最低限しか移動しないメルヒェンにとって、初めてしっかりと確認したそこは、普通の家、と言うの印象だった。彼はいないのだろうか、人の気配はしない。
 フローリングの床が、いやに心地よく感じられる。ぺたり、ぺたり、ゆっくりと歩を進めた。足音が、響く。
 階段を降りた先に、玄関があった。そこに手を伸ばしたのも、ただの好奇心だ。
どうせ心配する身内もいない。彼は特に危害を加えるでもない。ただ触れて、キスをするだけ。
 逃げようなどとは、思わなかった。ただ、外を見たい。そう思った。
 ―――がちゃり。
 響いた音は、メルヒェンが開けたからではない。ドアノブに手を伸ばそうとした矢先、自然とドアが開いたのだ。否、彼が、ドアを開けたのだ。
「あ、」
「……メル」
 彼が名前を呼ぶのと同時に、頬が熱くなった。そういえば、何かが弾けるような音も聴こえた気がする。
 叩かれたのか、と気づいたのは、その衝撃で壁に身体をぶつけてからだった。
「…っぁ!」
 床にへたりこむ身体を、腕を掴んで無遠慮に引き上げた彼は、無言のまま強引にメルヒェンを引きずるように玄関から連れ戻す。
「っ、いやだ…!」
 僅かに見せる抵抗すら意に介さないように、彼は何も言わずに階段を上がった。
 怖い。メルヒェンに降りかかる感情はそれだ。凪いでいるように見える碧い目が、その向こうで、とてつもなく荒れ狂っているように思えて、メルヒェンはただ恐怖に怯えた。
 上手く身体が動かない。冷や水を浴びせられたかのようだ。引かれるがままのその腕は、抵抗を示そうとしても適わなかった。
「ぁぅっ…!」
 部屋の扉を開けて、押し込めるように彼はメルヒェンを中に入れた。拍子に床に倒れ込んでしまい、声が上がる。
「ゃ、だ!」
 そのまま身体を跨ぐようにのしかかってきた彼を拒絶するが、その肩を押してもどういうわけかびくともしない。
 怖い。彼に対してここまでの恐怖を抱いたことはない。軟禁されている立場であるとはいえ、身の危険を感じたことは一度だってなかった。
「離して、んっ!?」
 同様に、そこへのキスをされたことも、一度もない。口を封じられ、驚きに僅かに開いた唇を閉ざす暇もなく、ぬるりと口腔を犯すもの。それが彼の舌だとは、容易には気づかないくらいには、気が動転していた。
「ん、んんっ、ふ、ぁ」
 両腕は片手でまとめられ、逃げようとした頭は空いた手で固定された。一見華奢に見える彼のどこにこんな力があるのかと思うくらい、足をばたつかせても逃れることは叶わなかった。
 ちゅ、ちゅく、と濡れたような音がする。水とするにはやや粘質な、艶のある音が部屋に響く。
 呼吸を奪われ、自由を奪われ、抵抗すらも奪われる。唇が解放された頃には、既に頻りに逃げようとしていた足の動きも鈍くなった頃。同時に霞がかっていく思考を現実に引き戻したのは、空気が直接肌に触れる感覚を伴ってからのことだ。
 はだけさせられた上着に、彼の反応を気にすることなく進められるそれを、メルヒェンは理解していない。ただ恐怖と、不快感だけが支配していた。彼が何も言わないのが、それを更に助長させる。
「ん、ゃっ……」
 腕を固定されたまま、彼はメルヒェンの顔を固定していた手で、反応も示さないそこに触れた。そのまま潰すように、捏ねるように弄られたが、やはり何かが返ることはなかった。
「……つまらん」
「…っ?」
 部屋に入って初めて発せられたその言葉に、どれだけ安堵しただろうか。それが色のないものでも、何も話してくれないよりはずっと良かった。
「ね、ねぇ、どうして…っ」
 ここぞとばかりに声を掛ければ、漸く視線を合わせてくれた。にこりと微笑まれると、どこか安心した。
「私は言ったはずだよ。外に出てはいけないと」
「で、も…!」
「だからこれは、お仕置きさ」
 ゆっくりと顔を近づけてきた彼が、ぺろりと溜まった泪を拭っていった。