懐郷の箱2 | ナノ







「イドルフリート」
 滅多にそう呼ばない父親に、帰宅するなり呼びつけられた。無視して自室に戻ろうとしたら、さらに強い口調でもう一度呼ばれ、イドルフリートは一つため息をつく。早く、メルヒェンに会いたいのに。
 仕方なしに廊下からリビングに入ると、いつも食事をするテーブルに、両親が並んで座っていた。これは前に座れと言うことか、と重い足取りでテーブルに向かう。
 シャツの襟を僅かに解いて、イドルフリートは話すなら早くしろ、と言わんばかりに父を睨んだ。おそらく彼らには、イドルフリートのこの態度も、反抗期にしか映らなかっただろう。
「何か、隠していることはないか?」
「……別に、」
 隠し事?むしろ隠し事しかないと言った方がいいのかも知れない。そしてその隠し事は、言いたくないから隠し事なのに、どうして無遠慮に暴き立てようとするのだろうか。
 過去にも両親は早く亡くしていたし、イドルフリートが親であった期間は短かったが、メルヒェンを子だとするならば、と考えて止めた。彼には隠し事などなかったろうし、あったとしてもこの愛に変わりはない。
「ねぇ…イド…本当の事を言って?」
「…本当の?」
 今にも泣きそうな表情の母の言葉に、イドルフリートは怪訝そうに眉を顰める。本当の事もなにも、彼らに隠していることが多すぎるし、それは誰にも言う気はない。
「ごめんなさいね、イド、お母さん、貴方の部屋を見てしまったの」
 気まずそうにイドルフリートから目を逸らして、母はそう告げた。その事にイドルフリートは目を瞬かせる。隠し事というくらいだから、どのことだろうかと思ってしまった。
 人形のことかとわかって、少し拍子抜けをしてしまった。あれに関してはばれたらばれたで問題はなかったから。イドルフリートが抱える感情が、彼らに分かってしまっただけのことで、何ら問題はない。
 イドルフリートが目を細めて笑むと、その見たことのない表情に、両親は息を飲んだ。
「あぁ…綺麗だろう?」
 悪びれもせずに、どこか虚無を見て彼は言う。
「綺麗って…貴方…」
「宵に混ざって指揮をとる姿も本当に様になっていた。綺麗なんてものじゃない。月光に照らされて輝く銀色は、今でも目に焼き付いているし、」
「イド!」
 両親には、イドルフリートのその姿は、まるで知らない誰かを見ているように思えた。父が強く呼んでも尚止まらないその舌に、異常さを感じ、母は知らずの内に口元を手で覆う。
 おそらくイドルフリートには、メルヒェンの姿が見えているのだろう。両親からすれば、彼が、自分たちの知らない内に人形を買っていたという事実だけを問うつもりだったのだが。
「私が彼を探しているように、彼とて私を探しているはずだ。嗚呼、メル…」
「イド、貴方、どうしたの…?普通じゃないわ…」
 やや震える声で問う母の言葉に、イドルフリートは漸く彼女を見た。その表情は、未だ彼女の知らぬ物ではあったが、彼が自分を見たということに、母は酷く安堵した。
「普通?母さん、私は普通だよ…?」
「だって、貴方、そんな…」
 そんな妄想を信じているなんて、と、尻すぼみに答える母に、イドルフリートは一瞬きょとんとして、それからまたふわりと笑った。その笑顔は二人に、彼が異常だと思わせるには十分だった。
 イドルフリートは、人形が彼らの目にさらされたことで、それまで隠し続けていた自らの思考も、嗜好も、また至高すらも、見透かされてしまったと勘違いしてしまった。
 ふふ、とどこか嬉しそうに笑うイドルフリートを、二人は他人を見るような目で呆然と見る。予兆がなかったと言えば嘘になるのかもしれない。年齢にしてはやや大人びた話し方をしていたし、クラスではどこか大衆と距離を置いているようだった。それが性格に因るものだと思っていたのだけれど、本当は、と考えて悪寒が走る。
 イドルフリートにとって、それは妄想などではなかった。確かにあった自分の過去だ。物心ついたときにはもう背中合わせだった過去。彼の笑う顔も、哀しそうな顔も、イドルフリートを呼ぶ声も、その肌の感触すら、未だ鮮明に記憶しているのだ。イドルフリートはその記憶を疑うことなどなかった。彼にとってそれは確かに、自分の過去なのだから。



 以来、イドルフリートはさらに過去に傾倒する。もともとどこか年齢不相応だった言動はもはや高校生のものとは思えず、現在の現実にそぐわないことも多くなった。
 両親にしてみれば、自分の子が妄想の世界から帰ってこないのだからたまったものではない。イドルフリートからすれば、建て前が必要なくなっただけで、元々の彼になっただけのこと。
 そのずれは両者の間に高い壁をそびえ立たせたまま、互いの理解を妨げるには充分過ぎた。
 そしてやがて、自分たちではどうすることも出来なくなった両親は、ある日、彼を病院へと連れて行くこととなる。




 小さく口ずさむのは異国の唄。どこで覚えたのかと訊かれても、イドルフリートは微笑むだけで答えない。答えたところで否定されるのだから、答える意味などないのだろう。
 自ら過去だと信じていたものを否定され続け、求めたものすら叶わない日々が、どれだけ続いただろうか。
 短かった金髪が、記憶にあるように赤いリボンで結える程度に伸びるくらいの時間が、すでに経っていた。
 白い部屋は、まるで鳥籠のようだった。もっと言えば、この世界そのものが、彼にとっては鳥籠だ。決して逃げられない檻が、どこまでも広がっているに等しい。
 薬だと言われている点滴の中身が、実は薬でも何でもないことをイドルフリートは理解している。いくら検査をしても、異常など見つからなかったことも分かっている。だってそうだろう。
(私は『正常』なのだから)
 少し、過去の記憶を持って生まれてしまっただけの話で、妄想でも何でもないのだから。
そして、幾度目かの冬が終わろうとしていた。
 日差しは次第に暖かくなり、麗らかな日が続いている。イドルフリートの行動範囲は、特に制限されたわけでもないが、その敷地の中にとどまっていた。
 両親が来ることはすでに無いに等しい。一向にイドルフリートが治らないのだから、会うのも辛い、と言ったところだろう。
(それでも、構わないのだけれどね)
 部屋から眺める先には、少ないとは言えない人影。薄々感づいてはいた。彼は、メルヒェンはこの世界にはいないのだと。いないことに証明など出来ないが、そうに違いないと。
 だから、窓の外に目を遣った時、彼は驚きと喜びと、あとはよく分からない感情に支配された。



 息を切らせて走るイドルフリートに、何人かはぶつかりそうになりながらも器用に避けていた。
 ふわりと揺れる宵の髪。遠くではあったのだけれど、イドルフリートにはそれが誰なのか、直ぐにわかった。
(メル…メル!私はここにいる!)
 こんな場所だから、きっと気づいていないのだ。だったら、こちらから捕まえてやらねばならない。イドルフリートはそう考えて、一心不乱に走っていた。
 空は清々しいくらいに晴れ渡り、陽の光がそそぐ。初めて踏み出す敷地の外に、当たり前だが恐怖はない。緩く結ばれた金の髪を翻しながら、彼はその背に追いついた。
「メルヒェンッ!」
 風に靡く闇色。振り返った彼は、やはり月のような瞳でこちらを見ていた。
 嗚呼、メルヒェンだ。すぐわかった。やや血色はいいが、それでも白いその肌と、満月の瞳。闇を裂く月光の様を写したような髪色は、彼がメルヒェンだと、イドルフリートに伝えていた。
(探していたんだ、ようやく見つけた。君もそうだろう?)
 言いたい言葉は一切出て来ずに、イドルフリートはただ、彼を見つめてたたずんでいた。絡む視線が、時が止まったかのような錯覚をもたらし、世間の喧騒すらも遠ざける。
(さぁ早く、私への愛を紡いでくれ給え…!)
 そうすれば、遠慮なく腕に閉じ込めることができる。待ち望んでいた瞬間が、ようやく訪れようとしていた。
 彼の形の良い唇は、驚愕の色を含んだままだ。やがてこめかみに指先で触れた彼は、喉から絞り出すように声を発した。
「えっと、ごめんなさい…どこかでお会いしましたか…?」
 困惑したような表情で告げられた言葉は、イドルフリートの舞い上がった心をたたき落とすには十分過ぎた。
「…メ、ル?」
「確かに僕はメルヒェンだけど…本当にごめんなさい、僕は貴方を覚えていない」
 呆然としているイドルフリートを、メルヒェンはやはり困ったように見ていた。
 改めて見れば綺麗な人だ。何故名前を知っているのかは分からないけど、どこかで会っているんだろう。名前もわからないなんて、とても失礼なことだ。
 一瞬痛みの走ったこめかみから手を離して、メルヒェンは微笑む。
「良ければ、貴方の名前をきいても?」
「……いや、いいんだ。人違いだったようだから。呼び止めて、済まなかった」
 そういって踵を返す青年の背に、メルヒェンは小さく声を上げるが、それが届くことはない。
 よく見れば、彼が帰っていく先は、そういう建物だった。そんな人には見えなかったのだけれど、とメルヒェンは考える。
 背を見せた後で、彼がどういう表情をしていたのか、メルヒェンは終ぞ知ることはなかった。



 彼は忘れてしまっていた。その事実は昂揚したイドルフリートの気分を、一度は冷却させるに至ったが、それも長くは保たなかった。
 忘れてしまっているのなら、思い出させてやらねばならない。自分と一緒にいれば、すぐに思い出すことだろう。
 丁度時間だった点滴を強引に外して、イドルフリートはその部屋から抜け出した。
 もともと部屋には最低限の物しか置いていない。僅かな着替えと、金銭その他。所持品などあるわけはなく、僅かな荷物しかなかった。
 あれ以来、何度かメルヒェンはここの前を通り、見上げていた。それの意味するところは分からなかったが、未だ人を疑うことを知らないのだろうか。そんなところが可愛らしい。
「ふふ…」
 思わず笑みが零れる。彼の姿を見かけるのは、決まって水曜日の昼間で、今日が丁度その日だった。一歩一歩、慎重に。下まで降りてしまえば、人に紛れ込めるはずだ。
 早くしなければ。太陽が天を指す。彼を見失う訳には行かない。