となりの。6-3 | ナノ


 朝方の浴場に響く、声にならない悲鳴。
「エレフ?」
「〜〜〜っ…いってぇ……」
 昨日、旅館から程近い海で日に焼けたせいで、エレウセウスの肩から背中にかけては真っ赤になっていた。布がこすれるだけでも痛いらしく、夜もあまり動いてはいなかった。
 そんな彼は、せっかくだからと来た朝の浴場で見事に静止している。その赤みは火傷なのだから、当然痛いに決まっている。
 反してメルヒェンとイヴェールは、そんなもの気にならないとでも言うかのように、一通り洗ってかけ湯をしたあと湯船に浸かっていった。今はエレウセウスだけが、鏡に向かっていて、その背中を二人が見ている格好だ。
「エレフ、大丈夫かい?」
 メルヒェンが声をかけると、肩の向こうから精気のない肯定が返ってくる。ひりひりと痛む肌に、声を上げるのも億劫らしい。
 イヴェールはぱしゃぱしゃと湯をかけて遊んでいるが、すでに湯船につかって濡れているのだから、その対象者たるメルヒェンが気を留める気配はない。イヴェールにはそんなことどうでもよいようだが。
 縁に腕をかけ、その上に頭を乗せるメルヒェンは、そんなエレウセウスを大変そうだな、などと他人事のように眺めている。湯に入らないように纏められた長い髪が、ぱさりと落ちて頬を擽った。
「昨日はしゃぐからだよ」
「お前らだってはしゃいでただろ…くっそ、何で二人とも焼けてないんだ…」
「だって僕達、上着てたじゃん!ね、メル君!」
「………あぁ、うん…」
 シャツを着ていたとしても半袖だ。二の腕から先や、首筋などは焼けてもいいはずだとエレウセウスは言いたいらしい。
 イヴェールはどうだか分からないが、メルヒェンに関しては、どれだけ日焼けしたくても焼けない。今回のように海で遊んでも、授業でプールに入っても、炎天下に肌が晒されようが、焼けることはない。
 幼なじみの女の子には羨ましいなどと言われたが、メルヒェンとて男だ。少しくらい、と思うのも事実だ。白すぎるから、不健康と言われて、母を心配させるのだから。
「…エレフはいいなぁ」
「んぁ?何か言ったか?」
「ん、何でも」
 けれども、体質ばかりは羨んだところでどうしようもない。
 メルヒェンにとってエレウセウスはしっかりしていて、大人で、頼りになる存在だった。イヴェールはどこか抜けていて、挙動がどこか幼くて、でも優しい。
 イヴェールにもエレウセウスにも、進学して初めて会ったのだけれど、そうとは思えないくらい、すぐに仲良くなれたと思う。
 この二人が友達で、本当に良かったとメルヒェンは思っている。少しばかり緩んだ頬を見られないように、メルヒェンはざぱりと湯から上がった。
「あれっ、メル君、もうあがっちゃうの?」
「これ以上入っていたら逆上せてしまうからね、先に部屋に行っているよ」
 イヴェールは物惜しげにそんなことを言っていたが、一緒に入っていてどうして逆上せないのかと、メルヒェンからしてみれば不思議で仕方なかった。
 ぺたぺたとならす足音と、エレウセウスの呻き声、イヴェールが水で遊ぶ音。一足先に着替えていよう。そんな事を考えながらメルヒェンは浴衣を身に纏った。
 部屋に戻る途中、メルヒェンは土産物コーナーで足を止めた。イドルフリートに何か買っていこうとふと考え、メルヒェンが視線をさまよわせる。
 そう言えば、つい先日は彼の前で無意識に鼻歌をもらすなどという失態をしてしまった。忘れてとは言ったが、気を悪くしなかっただろうか。
 メルヒェンは意識的に音楽を避けていた。嫌いなわけじゃないけれど、関わりたくないのだ。
 それでもふともらしてしまうくらいには、気を緩めすぎてしまった。そんなことを言えば、きっと彼は笑って、気にするな、と一言言ってくれるに違いない。優しく笑って、頭を撫でてくれるに違いない。
 表には出さないけれど、イドルフリートに撫でられることを、メルヒェンは喜んで受け入れていた。本当は母親にするみたいに抱きついてみたいのだけれど、それはさすがに嫌がられるだろうし、気持ち悪いと思われるだろう。
「あ、」
 ふと視界に留まる、ストラップ。貝殻やアンカーがついた、海らしいもの。何より目を惹いたのは、主張しすぎない程度に目立つ、サファイアだった。
 こういうところで売られているものだ。きっと本物ではないだろうが、その色にイドルフリートの瞳の色を思い出した。
 きっと似合う。喜んでくれるかは分からないけれど、自分が選んで渡す分にはいいよね、とメルヒェンはそれを手に取った。
「メル、まだ部屋に行っていなかったのか」
 横から掛けられる声は、エレウセウスのもの。その声色とは反対に、表情は固まっていた。
 イヴェールも一緒だったが、すでに彼の意識は土産物に向いているらしい。
「うん、イドにお土産買っていこうかなって」
「例の人だろ?」
 メルヒェンからの言葉でしかエレウセウスにはわからないが、彼の話からすれば、口は悪いし不遜だし、子供っぽい一面もあるけれど、優しい、いい人なのだという。彼の話をしている時のメルヒェンは、至極楽しそうだ。
 本人が良ければいいか、とエレウセウスは思いながら、土産物に目を向けた。
「誰かに買っていくのかい?」
「あぁ…妹に」
「あれ、お兄さんもいるんじゃないのかい?」
 そう訊くと、エレウセウスは思いっきり顔をしかめた。いつも思うが、エレウセウスは重度に双子の妹が好きすぎると思う。話でしか知らないが、アルテミシアという名らしい彼女は、エレウセウスから言わせればまさに女神のようだとのことだ。
 しっかりしていて大人という、メルヒェンのエレウセウスに対するイメージが崩れそうになったのはその時だが、まぁそれは置いておく。
 反面、彼には兄もいるのだが、そちらに対する態度は、妹とは天地の差だ。言及する時も、できることなら話したくない、とでも言いたげに、最低限のことしか言わないし、アルテミシアは訊いてもいないのに名前から容姿から性格までこと細かに言っていたのに対し、兄の名を言っているのを聴いたことはまだない。
「あーうん、仕方ないからな、適当に買っていってやるか…」
 それでもなんだかんだ言いつつちゃんと買っていくエレウセウスはやっぱり優しいなあ、とメルヒェンは思う。
「よし、僕はこれにする!」
 そう言ってイヴェールが手に取っていたのは、蛸壺だった。いつも思うが、イヴェールの選択はどこか不思議だ。しかし彼も、居候先の友人に買っていくのだろう。
 嫌がらせとして取られないかだけが心配である。
「サンなら大丈夫だし…」
 むしろ、どんな反応をするか楽しみという風なイヴェールに、メルヒェンもエレウセウスも苦笑いを浮かべる。あまりにも楽しそうなその様子に、おみやげというものは、相手の反応を楽しむためのものだっただろうかと少し考えた。
 意識を別にやっていると、イヴェールがつい、と寄ってくる。
「メル君は何にするの?」
「うん、これにするよ」
 大事そうに両手で持っていたそれをのぞき込むように、イヴェールがそれを見ようとするので、メルヒェンは隠しているわけでもないよ、とそれを見せる。
 綺麗だねぇ、とにこりと笑むイヴェールに、何故だかとても気恥ずかしくなった。
 家に帰ったらすぐ渡そう。照れたように笑う表情が、なんだかとても見たくなった。
 それから、話をしながらまた何か作ろう。一晩お願いをしてしまったから、彼の好物を作ってあげるんだ。眩しいくらいの笑顔で美味しいよ、と言ってくれるのが一番嬉しかった。
 おそらく、イヴェールもエレウセウスも、渡したあとの反応を想像しているに違いない。
 初めての夏、初めて友人とする旅行は、また行こうと約束するくらいには、とても楽しいものになった。

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変わりつつある日常


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2012.2.12