となりの。6-2 | ナノ


「………で、今日は一人って訳か」
 捨てられたのか、とからかう声は元先輩で現上司のものだ。
「うるさい。違う」
 西に沈んだ日がまだその名残を見せる空に向かって歩く、二つの影。宵が迫り、紺が侵食していく様はまさに、夜が降りてくるようだった。
 メルヒェンは、今朝から友人達と旅行に出掛けている。つまり今日は、イドルフリートが久しぶりに一人で過ごす夜と言うわけだ。というと若干語弊があるが、事実そうだから仕方ない。イドルフリートの部屋の本が片づかなかったため、ここしばらくはメルヒェンの部屋で寝ていたのだ。
 メルヒェンがいないのに彼の部屋で寝るわけにもいかず、かといって一人ですぐに片付けられるような部屋でもない。考える間もなくイドルフリートがとった手段は実に単純なものだった。
 イドルフリートが手から下げたビニール袋には、滅多に飲まないアルコール飲料。イドルフリートは一度飲み始めると、たがが外れて飲み過ぎることが多い。アルコールが嫌いなわけではない。しかし、メルヒェンにみっともない姿は見せられないから、あまり飲まないようにしている。
「そういえば、あのときは大丈夫だったのか?」
「あのとき?……あぁ、」
 一度だけ、案の定飲みすぎてしまって彼に迷惑をかけたが、それでもメルヒェンは笑って許してくれた。コルテスはそのときのことを訊いているのだろう。
「君のせいで散々だった」
 じとりと、イドルフリートがコルテスに恨めしげな視線を向けるが、彼はからからと笑ったままだった。のれんに腕押しとは、まさにこのことだ。
 その日アルコールに手を出したのは、コルテスのせいと言っても過言ではない。酔っ払った彼に間違えて渡され、不覚にもそれを飲んでしまったのだ。
「はっはっは、それは悪かったな」
「反省するつもりもないだろう…ったく」
「まぁそういうなって。あのときのお前、可愛かったぞ」
「何か言ったかこのド低能が」
「いーえ?なんでも?」
 開き直るようにふざけた口調で言うコルテスを尻目に、イドルフリートは溜め息をつく。この手段は失敗だったかも知れない。
 コルテスに持たせたビニールには、メルヒェンの手料理がある。幸いつまみにもなりそうなものだったので、イドルフリートの部屋で寝るのは諦めて、コルテスの自宅に向かう途中だった。
 彼は食べなくてもいいと言っていたが、せっかく作ってくれたのに、食べないのはもったいない。そう思って持ってきたのだ。
 今頃彼は、宿泊先にいるのだろう。一泊二日だと言っていたから、明日には帰ってくる。明日は外食でもいいかも知れない。それがいい、何か食べに行こう、と心の中で満足げに頷いていると、どうやら目的地に着いたらしい。
「いつみても大きいな…」
「そうかぁ?お前がいつまでも小さい部屋に居すぎなんだろ。引っ越せよ」
「断る。面倒だ」
 本当はそれだけではないのだけれど、それは今言うことではない。
 会社から歩いていける距離にあるコルテスの自宅は、住宅密集地にある一軒家だった。その辺りでは割と一般的だが、ずっとあの部屋に住んでいるイドルフリートからすれば、広いと感じるのは当然だった。
 玄関から先は、電気は点いていない。ぱちん、と音を立ててスイッチを入れると、ようやく部屋の全貌が明らかになる。
「いつも疑問なんだが。何故君の部屋にこれがあるんだ?」
 これ、と言って指をさすのは、黒い大きなグランドピアノ。何度かここには来たことはあるが、彼がこれに触れているのは見たことがない。
「…俺にもわからん」
「宝の持ち腐れだな」
 その話題は、そこで途切れる。そのグランドピアノが会話の中心にいたのはしばらくの間だった。イドルフリートにもコルテスにも、音楽という分野は縁のないものだったからだ。
 しばし沈黙が流れ、それを打ち消すかのようにイドルフリートは鍵盤に触れる。
「鳴るのか?」
「一応は」
 押さえてみればなるほど、ちゃんと音は出る。鳴らされた音が正しいかどうかはわからないが。
 何故ここにあるのかも、使われたことがあるのかも、今は誰もわからないことだ。彼の両親ならわかるかもしれないが、生憎とこの場にはいない。
「気になるのか?」
「……いや」
 何故か目についた。それだけの話だ。
 その何故に理由など見つかるわけがないし、もしかしたらそんなものないのかもしれない。
「まぁ、いいや。飲むんだろ?」
「…少しだぞ」
 そう言って家主よりも先に椅子に腰掛けるのが彼らしい。振り返った拍子に結わえてある尻尾髪がさらりと揺れる。
 傷む気配もないその髪を、コルテスはわしわしと乱すように撫でつけた。
わっ、と声を上げ、同時に手を叩かれる。睨まれはしたけれど、特に言葉はなかった。
「はいはい、少しな」
 そう言って少しだった試しはない。苦笑して、缶を開けるイドルフリートに続き、コルテスも自分の酒を選ぶ。
 メルヒェンの手料理は、れんこんのはさみ揚げだった。冷めていても美味しかったが、とりあえずレンジにかけることにした。
 メルヒェンがイドルフリートと関わるようになって、彼は変わったと思う。親しい人と以外は余り話すこともなく、必要最低限の会話すらしない時期もあった。その原因を知っているコルテスとしては、メルヒェンに感謝したいくらいだ。
「よかったな」
「ん?」
「お前が、ちゃんと大切に出来る人ができて、嬉しいよ」
「…?」
 それは自分ではできなかったことだ。言葉の意味は、ちゃんと伝わっただろうか。
 イドルフリートは口を開けばメルヒェンのことを言っているから、コルテスとしては少し複雑なのだけれど、それでも彼のことを思うなら、良かったというのは本音だ。
「何を訳の分からないことを言っているんだ。飲むならさっさと飲むぞ」
 ん、と缶に入ったままのアルコールを突き出されて、コルテスはその缶に自らの缶を当てた。かつんと音がするのと同時に、二人の「乾杯」という声が重なる。
 どこか子供っぽいイドルフリートの所作に笑いながら、コルテスは酒を煽った。
 結局はまた飲み過ぎるのだろう。一晩だけの酒盛りは、夜明けまで続いた。