となりの。5-2 | ナノ


 辺りはすっかり真っ暗になっていた。家に着くまでの間、二人は必要最低限の会話しかしなかった。
 荷物持とうか、ううん。夕食は、コロッケ、そうか。どれも長続きしない短い会話だった。
 お互いに、距離を測りかねている様子で、メルヒェンはメルヒェンで、また、イドルフリートはイドルフリートで、ちらちらとお互いの様子を伺っているようだ。
 しかし、話すきっかけは掴めないまま、二人はアパートへとたどり着く。金属質の二つの足音。
「ではメル、また後で」
「イド」
 自室の鍵をポケットから出そうとしたイドルフリートの服の裾を、メルヒェンが引くことでそれは制された。
 振り返って表情を伺おうとしたが、暗くてよくわからず、頼りになるのは彼の声の調子しかない。
「……何だい?」
「その、…一緒にいて、くれないか…?」
 言葉を選ぶようなそれに、イドルフリートは目を瞬かせた。きゅ、と裾を握る力が強くなるのがわかった。
 不安、なんだろうか。それはわからなかったが、イドルフリートは一つ笑んで、いいよと返した。
「ありがとう、イド」
その声色から、メルヒェンが笑ったのがわかった。ほっとしたような、そんな声だった。
かちゃりと開くメルヒェンの部屋の鍵、次いで僅かに軋むような音を立て開けられた扉から、彼の後について、イドルフリートが入る。
 メルヒェンは鞄を置くと、そのまま黒のエプロンを身につけて台所に立ち、イドルフリートは奥の部屋の小さな台を前に座る。肘をついてメルヒェンの背中を、その様子を観察する。端から見ればいつもと変わらないその光景。
 キャベツを刻む包丁の音やコロッケを揚げる音。生活の音。
 ぼんやりと眺めるそれは、今や盤石なようであって、その実、薄氷にも等しい『当たり前』。ともすれば失ってしまう、非日常。
「それは、いやだな」
 メルヒェンに押し切られただの、なんだかんだと言いながら、イドルフリートとてこの日々を楽しく思っているのだ。これまで短い時間ではあるが、イドルフリートはメルヒェンを気に入っている。
「イド?何か言ったかい?」
「いいや。それよりメル」
「?」
「悪かった」
 そう言った途端、イドルフリートに背を向けていたメルヒェンが勢いよく振り返った。ようやく見えたその顔に浮かぶのは、驚愕、といったところだろうか。
 目があったまま、降りるのは沈黙。油の跳ねる音だけが、その空間に満ちていた。
「なん、で……」
「ちゃんと言わなかったから、ね」
 立ち上がりながらそう言ったイドルフリートが、そのままメルヒェンの近くまで来て、ほほえんだまま、さらりと彼の肩にかかる髪を梳く。メルヒェンは動かない。イドルフリートの顔を見たまま、動こうとはしなかった。
「メル?」
「だって、僕が、」
 潤みそうになる目を隠したメルヒェンの手を取り、イドルフリートは視線を合わせる。
「僕が、意地を張ってしまったから…!」
 イドが気を悪くしているのではないかと。メルヒェンは途切れ途切れでそう言った。
 今日1日、ずっとそれを考えていたのだろうか。堰が切れたように泣き出すメルヒェンを慰めるように、イドルフリートは彼の背中を撫でた。
「メル、泣き止んでくれないか…?」
「でも、っ…」
「また後で話そう。今はお腹がすいたな」
 そこまで言って、メルヒェンはコロッケの存在を思い出したらしく、イドルフリートの手を振り払って煮える油からそれを取り出した。
 焦げるまでは行ってないだろうが、それでも若干香ばしそうなそれに、メルヒェンが申し訳なさげに肩を落とす。
「うん、美味しそうだ」
 その言葉に、僅かながら笑みを見せたメルヒェンは、イドルフリートの背を押して、テーブルに戻るように促す。もう少しだから、と声をかけ、彼は再びキッチンへ向かう。
 まさか、泣くまでとは思っていなかった。促されるままにもといたところへ座り込んだイドルフリートは、頬杖をついてぐるぐると考えていた。先に買ったミルフィーユは、メルヒェンが見ていないうちに冷蔵庫を拝借させてもらった。その出番はまだ先だろう。ちゃんと言わなくてはならない。
 そう思っている内に、準備が出来たらしく、イドルフリートの目の前には白米と味噌汁、それから山盛りのコロッケが置かれた。細く千切りにされたキャベツが彩りを添え、熱々と湯気を立たせる主役を引き立たせている。
「いただきます」
「……いただきます」
 手を合わせる習慣は、メルヒェンに感化されたものだ。最初こそ何も言わなかったものの、何も言わずに食べようとして、ぺしん、と手を叩かれたのは数度にわたる。
 黙々と進める箸は、確実に食べ物を口に運んで行く。じゃがいもをすべて潰しきらず、大きめの固まりもあるそれが、歯ごたえを残していていい。塩加減も丁度よく、食が進む。
 気づけば皿の上は何もなくなっていた。すっかり空になった皿とお椀を片付けるメルヒェンを、制したイドルフリートが重ねた食器を取り上げた。
「イド?」
「ちょっと待っておいで」
「…?」
 それだけ言うとイドルフリートは立ち上がり、流しに食器を持って行く。ついでと言わんばかりに冷蔵庫を開けるイドルフリートにも、何の違和感もない。すでに冷蔵庫の中には、イドルフリートのものもそれなりにあるからだ。
「イド?」
 先程メルヒェンが疑問を持った小箱を手に、イドルフリートはテーブルに戻ってきた。
 目の前に置かれたそれとイドルフリートを、メルヒェンが交互に見ていると、彼は苦笑しながら開けてご覧とばかりにその箱をメルヒェンの前に押しやる。
 その行動に、おずおずと箱に手を伸ばして、中身を確認したメルヒェンが、ぱぁ、と顔を明るくさせてイドルフリートを見た。良く表情の変わるのが、子供みたいだなと思った。
「ど、どうしたんだい…?」
「んー、仲直り、かな?」
 メルヒェンから目を逸らせて、恥ずかしそうにそう言うイドルフリートは、おそらくそのようなことをしたことがないのだろう。
 去る者は追わない。それが彼のスタンスだったのかも知れない。
「ちゃんと言わない私が悪かった」
「でも、あれは僕が言い過ぎたから…」
 あまり彼の生活を制限するようなことはしたくなかった。もとはただの隣人なのだ。たまたまとなりの部屋に住んでいるだけの、それだけの人に、そこまでしてもらうわけにはいかない。
 メルヒェンがぽつりぽつりとそう漏らせば、今度はイドルフリートが困ったように口を開く。
「メル?よく考えてご覧?こうして家に上げたり上がったりして、食を共にするのが、ただの、となりの人かい?」
「それは…」
「私は好きで君と一緒にいるのだよ。私に兄弟はいないが、君といると、まるで弟ができたようで楽しいし、嬉しい」
「イド…」
 君は違うのかい、と逆に問えば、メルヒェンは表情を隠すように俯き、ぼそぼそと口を開く。聞き漏らさないように、イドルフリートは音を立てないように彼の言葉に集中した。
 その頬が僅かに赤みを帯びているような気がしたのは、気のせいだろうか。俯いているため、彼がどんな顔をしているのか、はっきりとは見て取れなかった。
「僕、も。……兄ができたみたいで……嬉しかったんだよ」
 聞き取った言葉は紛れもない本心だった。出会いはふとしたきっかけではあったけれど、それでも互いが互いに、この関係を保ちたいと思っているのだ。
 その言葉に口角を上げたイドルフリートは、自信に満ち溢れているかのような声を上げる。
「だったら話は早いじゃないか」
「?」
「弟を案じるのは、兄の義務だろう?」
 その言葉のあと、不敵に微笑むイドルフリートを、ぱちくりと金色の目を瞬かせながら見る。
「イド?」
「君は知らなくていいと思っていたけれど、あんなことがあったからにはそうも行かない。今回はあれ以降何もないが、今後がそうとも限らない…」
「……」
 不意に表情の曇るイドルフリートに驚いたメルヒェンが、もぞもぞと居住まいを正して、金色の影に隠れるその瞳から、目が離せない。
 しばらく静かな沈黙が部屋に降りる。自分の鼓動の音だけが、いやに大きく聴こえるように思えた。何故だろう、緊張しているような、そんな心境だった。それは僅かに、居心地の悪さすら感じさせるものだ。
「い、」
「君が、無事ならそれでいい。私が心配なんだ。だから、迎えに行ってもいいかい?」
 許しを乞うようなその言葉に、メルヒェンは虚を突かれたように一瞬呆けたような顔をしたあと、ぷ、と吹き出した。
 対してイドルフリートの方は、彼なりに考えた言葉だったのだろう。彼の反応が心外であるかのように、じとりとメリヒェンを見た。
「す…すまにゃ……ぃ!?」
 むに、と頬を摘んで上下されれば、誰でも痛い。いひゃい、とまともな言葉にもならないそれと、少しの抵抗。
 一頻りむにむにむにとメルヒェンの頬をいじり倒した後、満足げに指を離した。多分、その頬は赤くなっているだろう。
 恨めしげに頬をさすりながら睨むメルヒェンなど意にも介さぬとでも言いたげに、イドルフリートは飄々とした態度のままだ。
「で、どうなんだい?」
「え?」
「迎えに行っても、いいのかい?」
 それはきっと、照れ隠しなのだろう、と。メルヒェンはようやく気づいた。どこか子どものような隣人のその言葉に、くすりと笑みを漏らす。
「ん、待っているよ」
「ああ、任せてくれ給え」
 そんなことを言いながら、二人はくすくすと笑いあった。朝の刺々しさがまるで嘘のように。



「これ、イヴェールがくれたんだよ」
 そう言って差し出されたのは紅茶が注がれたティーカップ。本当ここは、食器類には事欠かない。
「イヴェール?」
「大学の友達。紅茶を貰ったらしいんだけど、自分では飲まないからって」
 結構いいお茶なのにね、と言うメルヒェンは嬉しそうだ。彼が交友関係を口に出すのは滅多にない。今し方聴いたその名とて、初めて聴く名には相違なかった。
 思えばイドルフリートは、メルヒェンのことを何も知らないに等しい。家族のこと、学校でのこと、友人のこと。
 初めて、それを知りたいと思った。
「メルは、いつも遅くまで何をしているんだい?」
「予習したりとか、本読んだりとか」
「本、買わないのかい?」
「買っても置くところないし、見境なく買えないよ」
 次いで皿とフォークを出してきてミルフィーユを取り分け、紅茶用にと砂糖を真ん中に置く。イドルフリートはそのまま何も入れずに口を付け、メルヒェンはスプーン2杯分の砂糖を入れてかき混ぜた。どうも、苦いのは苦手らしい。
「イドの部屋は凄いね。本が一杯だ」
「何なら勝手に読んでくれて構わないよ。合い鍵は持っているだろう?」
「え、いいのかい?」
 さくさくとミルフィーユを崩しながら、イドルフリートの言葉に嬉々としてメルヒェンは答える。ミルフィーユは甘さ控えめで、いくらでも食べても飽きない味だ。時間は経っているが、パイ生地は湿気ていることはない。
 イドルフリートと部屋の合い鍵を交換したのは、出会って間もない頃になる。必要になるだろうからと、部屋の鍵を渡されて、ならば自分もと渡しておいたのだった。
 彼がどうかは分からないが、少なくともメルヒェンは、まだ一度もそれを使ったことはない。
「読みたいものがあったら持って行くといい。好きなものを好きなだけ学びなさい。それは君の特権だからね」
「本当かい、イド!」
 ありがとうと言う、本当に嬉しそうなメルヒェンを見て、イドルフリートも表情が和らぐ。何事に置いても楽しむというのはいいことだ。辛いだけでは意味がない。楽しくなければ何をするにも長続きしないだろう。
「学校は、楽しいかい、メル」
「あぁ、楽しいよ」
「そうか、それは良かった」
 目を細め笑うその顔は、まさに弟を想う兄のようだ。
 イドルフリートの本を好きに読んでも良いと言うのが願ってもないことなのか、わくわくしているだろうことが分かり易く態度に出ている。そんなメルヒェンを見て、改めてこの生活は悪くないな、とイドルフリートはぼんやりと思った。



→ Next Days? →




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お互いに求めていたんだ



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2012.1.11