となりの。4-2 | ナノ


 彼と食事を共にしはじめてから数ヶ月。ほとんど毎日のように会っているが、もうそれが当たり前になりつつある。それ以前の、全く生活感のなかった部屋を見続けたことが嘘のようだ。
 彼が生活スタイルを合わせてくれているのか、帰宅時間もほぼ一緒。気を遣わせてしまっているのなら申し訳ないと、一度そんなことを漏らしたら、それはないと否定された。
 弱いのかなんなのかわからないが、普段アルコールを摂取するところは見ない。少し前に一度だけフラフラになりながら帰ってきたことならあったが、飲み過ぎたのかどうかは教えてもらえなかった。一応、遅くなると連絡はあったものの、夜中にチャイムが慣らされた時には驚いたのを覚えている。
 あの時は結局、気持ち悪いとうずくまったものだから、部屋に招き入れて水を飲ませたりしている間に、布団で寝られてしまって途方に暮れたが、朝起きた時の気まずそうな表情は、滅多に見られないと思えばそれだけで良いものを見たと嬉しくなった。
 身の回りの事には基本ずぼらな隣人と共にいるのはとても楽しい。彼自身に兄はいなかったけれど、彼のような人をそう呼ぶのだろうかと思う。
 ぼんやりと机に向かってそんな事を考えながら、ふと手元の時計を見れば、既に時刻は9時30分を回り、図書館の人影もまばらになっている。外は勿論真っ暗だ。
 そろそろ帰らなければ、彼が帰ってきてしまう。今日の晩御飯は昨日作っておいたカレーだ。ゆっくり寝かせておいたから、きっと美味しくなっているだろう。結果的にイドルフリートに買わせてしまった食材だが、こうした形でお返しできるなら、それほど嬉しいことはない。
 筆記用具と教材を鞄にしまい込み、読み切れなかった本の貸し出し手続きをしてから、図書館を後にする。
「あつい…」
 冷房の効いた場所から出れば、夏の夜の蒸し暑さがよくわかる。じんわりと汗が滲み、髪が額に張り付く。
 夏は苦手だ。まだ冬の方がいい。メルヒェンはそんなことを思いながら、少しずつ歩を進める。
 一人で帰るのも慣れたものだ。いつもと変わらない。夜道は暗いが、電灯もあるため真っ暗で何も見えないということはない。
 エレウセウスやイドルフリートは気を付けろと言うが、何に対して気を付ければいいのだろうか。少々抜けているところがあるのは自分でも分かっている。側溝に落ちるにしても蓋はあるから落ちることはないし、引ったくりにしたって見るからに学生だから狙われることもないし、などと考えたところでわからないものは仕方ない。
「………っ!」
 メルヒェンが急に立ち止まる。足下を見ながら歩いていたために、眼前に電柱が迫っていたことに気づかなかったのだ。
 これだから抜けていると言われるのだ。誰かに見られていたら恥ずかしいなどと思いながら、きょろきょろと辺りを見渡す。
「…?」
 感じた違和感は、視線だろうか。今まで感じた事のない、表現しようもないが背筋を何かが伝う感覚だけが去来する。
 けれど周囲に人影はなく、メルヒェンはそれを気のせいだとして、家路を急いだ。早く帰りたい。直感的にそう思った。
 どれだけ歩いても、蒸した空気に混ざってまとわりつくそれを気持ち悪さだと繋げたのは、しばらく経ってからだった。そんなことはこれが初めてで、どこかに入ろうにも、帰路にある店は大概閉まってしまっている。
 何度目かに振り返った時、数本後ろの電柱に微かながら人影を認めた。自意識過剰であればよかったのだけれど、それから何度振り返っても、それは変わらない。
「どう、しよう」
 つけられている。ようやく気づいたそれに、メルヒェンは恐怖で身震いをした。漏らした声は、僅かに空気を揺らしただけ。背後からは、足音すら聴こえる気がした。
 帰りたい、けど、帰れない。足は止めないまま、メルヒェン震える手で携帯電話を取り出した。上手く操作できないそれで必死になって見つけた名前。発信ボタンを押して、耳に押し当てた。
 早く、はやくと心の中で祈る。数度のコールの後、出たのは既に聞き慣れた隣人の声。どうした?と訊かれても、すぐに答えられなかった。
『メル…?メル!』
 不審に思ったのだろうか。少し強めに名前を呼ばれたその電話の後ろで、どうしたんだ、などと言う男の声が聴こえる。
「ぁ、の、イド、どうしよう…」
 やっと繋がった言葉は、通じただろうか。電話口の明らかに不安げな声は、イドルフリートに焦りを植え付けるのに十分だったらしい。
『何があった?』
「誰かが、後ろ、ついて」
『…すぐ行く。絶対に相手をしてはいけないよ』
 ちゃんとした言葉ではなかったけれど、それでもイドルフリートは分かってくれた。電話は切られないままで、メルヒェンにはそれが安心できるものだった。
 向こうでは、出せだとか、早くだとか言っているのが聴こえ、何のことかわからずにいたけれど、イドルフリートの言うとおりにしていればいいと思った。
『今どこだい』
「スーパーの、前」
『わかった』
 回りに人はいない。ただ待つしかない。ただ時間を稼ぐその時間が、メルヒェンにとっては途方もなく長いもののようにすら感じられ、不意に見た時計が、思ったより動いていないことに驚く。
 イドルフリートがどういう状況なのかわからないが、時折指示するような言葉がきこえる。もうすぐだ、と告げられて、一言、うん、とだけ返事をした。
 背後から迫るヘッドライトの明るさに振り返るのと、メルヒェンの横に車が止まったのはほぼ同時。後部座席のドアが開いたかと思えば、何が、と認識する前に、そこから伸びた手にぐいと引かれ、声を上げる暇もなく、車の中に引きずり込まれた。
「ひっ、やっ…!」
「、メル!」
 反射的に腕を張り、わけもわからないまま、恐怖に暴れようとするメルヒェンの耳に届いたのは隣人の声。
 はたと気づいて良く見れば、いつものようにスーツを纏った彼がいた。ぱちくりと数度瞬かせた双眸が、自分の意図に反して潤むのがよくわかった。
 引きずられた拍子で、イドルフリートの膝に倒れ込むような体勢になっている。彼を見上げれば、優しく髪を撫でてくれた。
「怖かったな」
「だ、だいじょ、ぶ」
「…強がらなくて、いいんだよ」
 苦笑するような笑顔で、触れられた手のひらの熱は紛れもない彼のもの。目から涙が零れるのを見せたくなくて、メルヒェンは俯いた。
 けれどそれでは、落ちたそれがイドルフリートの衣服に染みてしまうと、今度は腕で視界を隠した。
 怖かったのは本当だ。けれど、大丈夫なのも本当だ。助けを求めようと真っ先に浮かんだのがイドルフリートだった。自分は存外、彼を頼っているらしい。
 小さく震える肩を、イドルフリートは抱いたままだった。落ち着いて、ふと誰が運転しているのか気になった時、前から低めの声が掛けられる。
「二人でイチャイチャするのもいいけど、俺がいるのも忘れるなよー」
「……!!」
「そう捉えるのは君だけだろう。いいから黙って運転してくれ給え」
「それはいいけど、どこまで行くんだ?」
「とりあえずそこらを適当に走ってくれ。メルが落ち着くまでな」
 バックミラー越しに見られていると思った途端、今の自分の体勢が恥ずかしいもののように思え、慌てて身体を起こした。不審そうにイドルフリートが見るが、暗くて良かった。きっと顔は赤くなっているから。
「いえ、もう大丈夫ですから、…えと、」
「こいつはコルテスだ。低能でいい」
「おいおい、イド。それは酷くないか?まぁいいけどよ…」
「えっと、コルテスさん、ありがとうございました」
 赤信号で止まって、未だバックミラー越しではあるけれど、コルテスにまじまじと見られて、メルヒェンは首をすくめた。
 何か、と問おうとした瞬間、信号が青になったと同時に、コルテスが口を開く。
「ま、気をつけるこったな。お前…メル君だったかな、綺麗な顔してっから」
「……?」
「あと、イドは俺のものだから、そこんとこもよろしく」
「えっ、あ、はい…?」
「おい貴様このド低能が、メルに変な事を吹き込まないでくれないか」
 ともすれば殴りかかりそうなほどの殺気。握られたままの手に力が籠もり、メルヒェンは思わず顔をしかめた。それでも、まだこの手は離して欲しくないと思う。
それからしばらくコルテスの運転する車であたりを回り、自分のアパートまで送ってもらった。
 何から何まですみませんと謝ると、気にしなくていい、と笑って言われた。
 階段を叩く靴の音だけが聴こえる。手はもうずっと繋がれたままで、二人の間に言葉はなかった。頼りがいのある、隣人。まるで初めから身内であるかのように、イドルフリートは接してくれていた。
「一人で平気かい?」
「…心細い、かも」
 部屋の前で問われて、そう返せば、彼は何も言わずに手を引いた。互いが互いの部屋で寝泊まりすることはままあったから、それは何ら不思議なことではない。
 メルヒェンの部屋を通り過ぎ、イドルフリートは自分の部屋の鍵を開けた。一度解かれた手、玄関に入ったはいいものの、一向にそこから動かないメルヒェンに、イドルフリートは不思議そうに声を掛ける。
「メル?」
「イド、が。気をつけろと言っていたのは、こういうことかい?」
 気になった事を問う唇は、憎らしいくらい震えていた。
 背後を得体の知らない人がついてくるというのが、あれほど怖いものだとは思わなかった。今回はイドルフリートが助けてくれたからいいものの、彼がいなければどうなっていただろうと、想像するだに恐ろしかった。ともすれば座り込んでしまいそうになる足を叱咤して、メルヒェンは助けを求めるようにイドルフリートを見た。
「…そうだよ」
 まさか本当にこうなるとは、考えなかったわけではない。立ってないでおいで、とメルヒェンの手を取れば、大人しく引かれるままについてきた。
 宥めるように髪を撫でながら、イドルフリートはメルヒェンを座らせたあと、何もない台所から麦茶を注いだコップを取り、彼の前に置いた。
「なんで…」
 どうして、気を付けろなどと言ったのか、メルヒェンは理解していなかった。落ち着かせようともつれた思考は、最悪の可能性ばかりにたどり着く。
 怯えたように自分を見るメルヒェンに、イドルフリートは一つ溜息をついた。
 彼と同じように座り、視線を合わせる。テーブルを挟んで、本棚を背にしたメルヒェンは、気づかなかったけれど、まだ僅かに震えていた。
 苦笑して、そんなに怯えないでおくれ、とイドルフリートはまたメルヒェンの髪を撫でる。
「…私もね、昔同じ目にあったことがあるのだよ」
 だから心配だったんだ、と告げるイドルフリートに、メルヒェンは目を瞬かせた。
「同じ?」
「そうさ、まぁそのときは、コルテスに何とかしてもらったんだがね…」
 きけばコルテスという人物は、イドルフリートの大学時代の先輩だと言う。知らずに就職した先も同じで、イドルフリートは今、コルテスの部下にあたるのだとか。『俺のもの』というのは、きっとそういう意味なのだと、メルヒェンは一人で結論づけた。
 聴くに、低能などと言っていながら、恐らくイドルフリートの彼に対する評価は低くないと思う。
「まぁ、そんなことはどうでもいい。私が傍にいるから、ゆっくり寝給え」
 ぐい、と布団に押しつけられて、まるで小さな子供にするかのように添い寝をされた。スーツ、と零すと、君が寝た後に着替えるよ、と笑って言う。
 髪を撫でられているうち、眠気が襲ってきたメルヒェンは、最後までその金色を視界に入れながら眠りについた。



→ Next Days? →




****
不安を感じることすらも



戻る
2011.12.20