となりの。3-3 | ナノ


 携帯電話に届いたメールを、イドルフリートは開封せずにぼんやりと眺めていた。
 既に日は落ち、宵闇の頃。翌日は休み、ということもあり、早めに仕事を切り上げたのだった。
 見ればメールの送信元はメルヒェンだった。受信したのはつい先程で、イドルフリートはすでに自宅まで目と鼻の先の位置まで来ている。
 そもそも、彼から連絡があること自体が少ない。珍しいな、と思いながらぽちり、とボタンを押す。短いながらも丁寧な文体なのは、彼の性格故か。おそらくは誰にでも同じようにメールを送るのだろう。
 外で食べてきてほしい、というような意味の文面に、イドルフリートは歩をいったん止めた。
「ぁー…」
 その内容を理解して口から漏れたのは、我ながら間抜けな声で、引き返すにも面倒だし、とりあえず一度帰ることにする。どちらにしても、まだカップ麺の買い置きもあることだし、それを食べればいいな、と考えた。
 それにしても珍しい。友人達とどこかで食べているのだろうか。メルヒェンはアルバイトらしいアルバイトもしておらず、そういったことは滅多にない、とは本人も言っていたことだ。しかし、考えても詮ないことだ、とイドルフリートは再び自宅に向けて足を動かした。
 イドルフリートが住む部屋は、もうずっと彼以外の所有者を見ていない。彼が学生だったころから、就職しても引っ越しが面倒、という理由からずっと住み続けている。もう10年近くになるだろうか。
 学生達は卒業と同時に別の住まいだったり、実家に帰るなり、住まいを移すことが多いが、イドルフリートの就職先はそこから程近い場所にあったから、卒業してもそのままずるずると使わせてもらっている。これまでそこで知り合った者が皆無と言うわけではないが、自分の部屋に上げたり、相手の部屋に上がったりする程と言うのはメルヒェンが初めてだった。
 見ず知らずの自分に、戸惑いがちにでも心を開いてくれるのがなんとも可愛らしい。不摂生を心配し、食事まで作ってくれるのは嬉しかった。イドルフリートに兄弟はいなかったが、弟がいればこんな感じなのだろうな、と思う。
 考えながら歩けば直ぐにアパートにはたどり着き、不意に顔を上げて違和に首を傾げた。
「…?」
 隣の部屋に灯りが着いている。
 別に何をする、とは書いていなかったから、部屋に帰っていてもおかしくはないが、メルヒェンもどこかで食べてくるのだろう、と決めつけていたイドルフリートは、目に入るその様子に若干拍子抜けしたのも確かだ。
 もしかして、何かあったのだろうか。
 顔だけでも見ておくか、と考えて、イドルフリートは階段を上る。自分の隣の部屋で足を止め、躊躇いもなくチャイムを押した。
「………メル?」
 いつもなら直ぐに出てくるのに、今日は遅い。どこか抜けている彼のことだ、電気を消し忘れて出掛けでもしたのだろう。ふ、と一つ息を吐いて、ポケットに手を伸ばした時、目の前の扉が開く音がして、イドルフリートは驚いた。
 扉から覗いた影はどことなく立っているのもつらそうで、その瞳は常よりもいくらか濡れているように感じられた。扉の前にいたイドルフリートに驚いたのは彼も同じようで、メルヒェンはぼんやりとイドルフリートを見、イド、と名を呼んだ。
「……なんで」
「どうしたんだい、メル。風邪か?」
「そうみたいで…だから、今日は夕食を作れそうにない…」
「いや、それは気にしないでくれ給え」
 イドルフリートがメルヒェンの肩を押して室内に戻すと、力なくそれに従い部屋の中に戻った。
 既に敷いてあった布団にメルヒェンを寝かせると、顎の下まで掛布を引き上げる。そのまま手を額に当てて、イドルフリートは熱いな、と呟いた。
「メル、医者は行ったか?」
「行ってない」
「薬は」
「飲んでない」
「………夕食は食べたのかね?」
「食べたくない」
 ふい、とイドルフリートから視線を逸らしてさらに掛布を引き上げてしまう。そのせいで、イドルフリートには彼の表情が見にくいものとなってしまった。
 一つ溜息をついて、イドルフリートはメルヒェンの髪を撫でてから立ち上がる。少し待って居給え、と言う言葉を、遠ざかる足音にメルヒェンがそちらを見れば、イドルフリートは玄関から出て行くところだった。
 数分も経たずに戻ってきた彼の手に、何か持たれているのはわかったが、それが何かまではわからない。
「イド…?」
「寝ていなさい。台所借りるよ」
 布団の傍まで来て枕元に置かれたのはスポーツ飲料で、寝転びながらでも飲めるように、ストローが刺さっていた。彼の手で頭を持ち上げられ、再び降ろされると後頭部に冷たい感覚。遠くにゴツゴツとしたものもあって、嗚呼、氷嚢を持ってきてくれたのか、と回らない頭でぼんやりと考えた。
 あとは勝手知ったる何とやらで、イドルフリートはさも自分の家のように冷蔵庫を開けたりしているが、それも全く気にならない。むしろこういう時、一人じゃないのは本当にありがたい。メルヒェンに兄はいないが、いたとしたらこんな感じなのかなと思った。
 台所から聴こえる、苦手だと散々言っていた調理の音も、撫でる手の優しさも、何かが焦げたにおいも。
「……ん?」
 焦げたって何だろう。
「イド?何かにおうのだけど…」
「えっ、あっ、鍋!!」
 慌てて火を止めるその様子が可笑しくて、思わずくすくすと笑ってしまった。メルヒェンが何も食べたくないと言ったから、少しでも何か腹に入れた方がいいと考えてのことだ。
 しかし、その様から見るに、苦手なのは本当のようだった。若干申し訳なさそうにしているのが、いつもの彼らしくない。
 茶碗に入れられて運ばれたのは、さらりとしたお粥で、きょとんとそれとイドルフリートを交互に見ていると、少し乱暴に、けれど優しく起こされた。
「不味いかも知れんがな。少しは食べた方がいい」
「えっ、でも」
「ほらいいから。ああ、なんなら食べさせてやろうか」
「ちょっ、イド…っ!誰もそんなことは…!」
 そうにやりと笑いながら言うと、イドルフリートはメルヒェンの背を支えたまま、れんげで粥を一匙掬う。ふう、と息を吹きかけて冷ましてから、そのままメルヒェンの口元に持ってきた。
 そこまでされて、いらないとはもはや言えず、メルヒェンはゆっくりとそれを口にした。多少冷まされたとは言え、まだ熱いそれは、いくらか焦げ臭かったが、それも彼の好意だと思えば嬉しいものでしかない。
「おいしいよ、イド」
「そうかい」
 それは重畳、とイドルフリートは満足げに笑った。
 時間をかけてゆっくりとしか食べられなかったが、イドルフリートはそれでも自分で食べろとは言わなかったから、メルヒェンもついそれに甘えた。時折スポーツ飲料を飲ませてくれたり、むせてしまえば背中をさすってくれて、小さな子供でもないのになぁ、とメルヒェンは思うが、それを言えばイドルフリートはきっと鼻で笑うしかしない。
「薬を飲んだら寝給え、風邪には休息が一番だ」
「う…ん、イド、ありがとう」
 一人暮らしで、何もかも自分でしなければならないというのは、こういう時にでも適用されるが、メルヒェンはこの優しい隣人が近くにいてくれて、本当に良かったと、睡魔に閉じていく思考の隅で思った。


→ Next Days? →


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人の手は心地いいものです



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2011.10.23