となりの。3-2 | ナノ


 しまったなぁ。そうメルヒェンはぼんやり考えた。朝から何となく頭が重い。
 朝はどこかおかしいな、くらいだったのに、今では完全に風邪の症状だ。イドルフリートに移ってないといいなぁ、などと思いながら、前の黒板に集中してみようとするが、なかなか巧くはいかない。あと少しで期末考査だから、教授も追い込みで必死だし、受ける学生も切羽詰まって来た。
 休みたくないな、と思うけれど、寒気までしてきたのはさすがにどうだろう。季節は真夏を間近に控えた頃だから、冷房も入っているし、直接風が当たるところならば寒くてもおかしくないけれど、さすがに奥歯がなるほど寒いのは、いくらメルヒェンが鈍いからといってさすがにまずいと思った。
 となりに座るエレウセウスの袖をちょい、と引く。真剣に講義を聴いている彼には悪いと思ったが、これ以上はさすがに限界だった。
「メル?どうした?」
 小声で訊いてくるエレウセウスも、メルヒェンの様子がおかしいのに気づいたらしい。カタカタと震えているのがどうも異常だ。
「さむい…エレフ、寒い」
 良く見ればいつも以上に顔色が悪く、僅かに上げる視線が潤んでいるように見える。
「メル、保健室行くか?」
「…っ行っても変わらないし、今動きたくない…」
「おい…っ」
 そういうとメルヒェンは、うずくまるように身体を縮め、そのままぽてん、とエレウセウスの膝に倒れ込んだ。
 座っているのも辛いのだろうか。だとしたら大変だ。確かめるように額に手を当てれば、普段の低い体温が嘘のように、エレウセウスの手のひらには熱さが伝わってくる。
 本当に動くつもりのないらしいメルヒェンに、自分の上着を掛けてやれば、離すまいとするかのように、それをキュッと握った。固く目を閉じる彼の髪を撫でる。ここが大きな教室で、今が一般教養の講義でよかったかも知れない。広い広い教室の一番後ろの一番隅。黒板から遠いそこは、前に行きたがらない人の数こそ多かれど、前からは小さすぎて気にも留められないだろう。
「もうすぐ終わるから、それまで寝てろ」
 ノートは見せてやるから、と耳元で小さくいえば、こくりと頷いた後に、ありがとう、という言葉が微かに耳を掠めた。エレウセウスはもう一度メルヒェンの頭を撫でたあと、時計を気にしながら、読みづらい黒板の文字と教授の話を記録する作業に戻る。すぅ、とメルヒェンが息をする音が聞こえてきて、本当に寝たのか、と片隅で思った。
もともと根は素直で真面目だから、毎日図書館が閉まるまでいたとしても気にならないが、ここにきて寝不足が生活に響いてきたのだろうか、とエレウセウスは考える。時刻は既に終了まで30分を切っていた。
 教授のまとめる口調が心なしか早くなり、学生がペンを進める音も焦りを見せ始める。きいた話、教授の言うまとめさえ聴いておけば、試験は何とかなるらしい。だからそれまではただ聴くだけだった者も、必死でノートに書き写している。
 たっぷりノート一ページ分は話した後、教授は今日は終わりと告げて、前の扉から出て行った。席を立つ者、そのまま談笑する者、その中でエレウセウスは鞄から携帯電話を取り出して、電話をかける。
 2、3度のコールの後、出た声は違う部屋で必修科目を受けていたイヴェールだ。いつも終わるのが早いと言っていたから、掛けてみれば案の定ちゃんと出た。
「イヴェール?お前今日もう講義ないよな?」
 うんないよー、という電話越しの声は、いつもと変わらず明るいものだ。エレウセウスは後1限残っているし、メルヒェンはどちらにせよ、こんな状態で次の講義を受けられないだろう。明日は休みだし、ゆっくり休むといい、とエレウセウスは思う。
電話で今いる場所を告げ、イヴェールに来るように言えば、特に疑問に思うことがないような軽い調子の答えが返ってきた。
 メルヒェンはまだ眠っている。そっと手のひらを額に当てれば、じんわりと熱が伝わってくるが、その熱さに反して寝息は安らかなものであった。
「あっいたいた!エレフ!」
 前の方から聴こえる声はいつもの調子で、笑顔を絶やさずに手を振ってくるイヴェールに、エレウセウスは唇に指を当て、静かにするように訴える。その様子に疑問に思ったか、イヴェールはそろそろと近寄ってきて、あぁ、と納得したような表情になった。
 講義が終わったことも気付かずにメルヒェンは寝入っていて、エレウセウスはその膝を貸しているために動くことができない。
「イヴェール、お前、メルを送っていけるか?」
「何、メル君体調不良?」
「そうらしい。熱っぽいし」
「風邪かな?僕は今日はもう終わりだからいいよ。エレフはまだあるんでしょ」
「あと1つ。悪いな……メル、メル起きろ」
 エレウセウスの声に反応し、んぁ、と少々間抜けな声をあげてから、メルヒェンがゆっくりと瞼をあげる。まるで小さな子供のようなその様子に、イヴェールの笑みが深くなったような気がした。
 メルヒェンは目を擦りながら上体を起こすが、どこかそれは覚束なく見え、辛そうでもあった。
「……あれ、イヴェール…?」
 そこにいないはずのイヴェールの姿に目を瞬かせ、彼を見上げた。ただでさえ色の悪い顔の血色はさらに悪く、またその目は寝起きでか体調不良でか、しっかりと瞼を開けていることすらままならないらしい。
 ともすればふらりと倒れてしまいそうで、エレウセウスは思わずその肩を支えた。
「あ、すまない、エレフ」
「いいよ。それよりお前もう帰れ。イヴェールが送ってくれるから」
「でも、まだ授業、」
「駄目だよメル君。ちゃんと休まないと」
 そう言うとイヴェールはメルヒェンの鞄に、出しっぱなしだったノートや教科書を無造作に詰め込み、抱え上げてしまう。あ、と声を上げるが、抗議しても聞き入れてもらえそうにはない。
 ほら、と手を出されて、メルヒェンはその手を無意識に取った。立てる?と訊かれるが、立てなければ担ぎ上げられそうだったので、頷くことで返事の代わりとする。
「イヴェール、でも悪いよ。帰るから、一人で帰れるから」
「だぁめ」
 だから鞄を返せと言外に含んでも、イヴェールには伝わらない。すでに彼の意識はメルヒェンの家までの地図をたどっているようだった。
 エレウセウスは次のがあるから、とふたりを置いて行ってしまうし、イヴェールはメルヒェンの手を握ったまま、熱いね、などと言っている。
 身体が怠いし、寒いから動きたくはないのだが、けれど動かなければ先には進まない。
「メル君、大丈夫?荷物は僕が持ってくね」
「イヴェール、君と僕の家は真逆だろう…?」
「えー、なんのことー?」
 彼なりの気遣いなのだろう。言いながらも外へ向かうイヴェールに、メルヒェンはついに甘えることにした。ゆっくりと歩くメルヒェンの歩調に合わせてくれ、外に出てみれば彼の通学用の自転車がそこにはあった。
 イヴェールは荷物をナップサックに入れている為、その自転車の籠には必然的にメルヒェンのものが収まることになる。
 メルヒェンはふと自分の肩に手をやり、まだそこにエレウセウスの上着があることに気がついた。
「あ、返さないと…」
「借りておきなよ、メル君寒いんでしょ」
「でも」
「大丈夫だって。ね?」
 イヴェールが笑って、自転車を引きながら手を伸ばすので、メルヒェンは少し戸惑いつつもその手を取った。大学生にもなって、僅かに恥ずかしかったが、なんだか足元がふわふわする。転んでしまっては申し訳ないから、と自分に言い聞かせた。
「イヴェール、僕の家、覚えてるかい」
「多分」
「…そうかい」
 このあたり素直だな、とメルヒェンは思った。子供っぽい性格でもその手は頼りになるくらいのもので、発熱した身体には、彼の体温の低い手のひらが心地よかった。