となりの。2-2 | ナノ


 早足で向かう彼の大学は、住居からそう遠くはない。確かにいつもより遅い時間ではあるが、ゆっくり行っても1限目には間に合う。けれど日頃の癖か、早く着かないと、という気持ちが先に行ってしまうのである。
 今日は午前中の講義だけの日で、いつもその日の午後はイヴェールやエレフと話をしていることが多い。それ以外にも、一人空いている時間には、どちらかの講義に潜り込むこともあるし、図書館で時間を潰したり、食堂等で呆けていることだってある。要は気紛れ。
 学校の門をくぐり、メルヒェンはまず掲示板を確認する。一度、休講に気付かずに部屋に行ってしまってから、掲示板の休講情報は必ず確認するようにしていた。
「今日は…」
 ぽつり、と呟いたところで、ドン、と背中に走る衝撃。メルヒェンは驚いて、少し前によろけてしまう。無様に転ぶことだけは何とか耐えた。エレウセウスとは違って彼は文化系だったから、数歩前に行ってしまうのは仕方のないことだと思う。前に人がいなくてよかった。
 昨日、背後からエレウセウスに飛びついた時も、こんな感じだったんだろうなぁ、とメルヒェンは申し訳なく思った。
「メールーくん!Bonjour!」
 ぎゅっと肩口に抱きつかれ、メルヒェンは少し呆れたようにその腕を解こうとするがその力は意外にも強く、なかなかはずすことができない。肩口に当たる彼の銀の髪がくすぐったく、メルヒェンは身じろいだが、抱きついた本人はそんなことお構いなしに離れようとしない。
「イヴェール、くすぐったい」
 少々強引ではあったが、身を捩ることでイヴェールから逃げる。ああっ、と残念そうな声を上げるのを無視し、メルヒェンは掲示板を見た。背中の方で動く気配のするイヴェールを無かったことにする。
 今日の1限目はイヴェールやエレウセウスも一緒に受けている講義だから、同じ時間にいるのは問題ないが、いつも開始ギリギリに教室に滑り込んでくるイヴェールが、この時間にいること自体が珍しい。
 視線だけで休講のリストを追い、ふと目が止まる。
「あ、休みだ」
「えっ、ほんと?せっかく早く起きられたのに…」
 イヴェール曰く、暑いは苦手らしい。確かに、気温が上がるにつれて彼の行動は鈍くなるように思う。普通逆ではないのか、とメルヒェンは思うが、メルヒェン自身も夏よりは冬がいい。溶け崩れそうな暑さより、凍えるほどの寒さの方が耐えられる。
「君が珍しいことをするからじゃない?イヴェール」
「えぇっ!そんなことないよ!」
「ははっ、冗談だよ」
 にこりと微笑んだメルヒェンが、またイヴェールに抱きつかれそうになったので、腕を張ってそれを拒む。抱きつきたいイヴェールと、嫌がるメルヒェンが攻防を繰り広げていると、欠伸をしながらエレウセウスが声をかけてきた。
「…何やってんだお前ら。通行人の邪魔だぞ」
「Guten Morgen、エレフ!ちょっと助けて…!」
「Bonjour、エレフ!あ、今日1限休みだよ!」
「は、休み?」
 朝から早起きして登校する者にとっては、1限目が休講だと愕然とするものだ。イヴェールは自転車で通学しているし、メルヒェンは歩いて来られるが、エレウセウスは電車だ。時間のこともあるし、なにより1限に間に合うように来ようと思ったら通勤ラッシュに揉まれる為、できれば避けたい、と言ったのは彼だった。
 実際に自分の目で休講案内を確認したエレウセウスは、見るからに肩を落としたように見えた。
 意外に押しの強いイヴェールに結局は抱きつかれながら、メルヒェンはエレウセウスに言葉を投げかけた。
「2限までどうする?」
「仕方ないから次の教室に行くか…」
 たしかそこは1限目は空き部屋だったはず、とエレウセウスは漏らした。ぐりぐりと頬を擦り寄せるイヴェールをエレウセウスに引き剥がしてもらい、メルヒェンはようやく一息ついた。
 至極残念そうにイヴェールはむくれた顔をしていて、メルヒェンはそんな様子の彼を子供っぽいなぁ、と思う。けれど、彼が割と激しめのスキンシップをするのは、メルヒェンの知る限り自分しかおらず、エレウセウスには抱きついたりしない。それが何故なのか、メルヒェンにはわからなかったけれど、彼からすれば愛情表現なのかもしれないと考えれば、悪い気のしないものではあった。
 3人で向かう一番新しい教室棟。彼らがそこに着いたとき、既に始業時間は過ぎていて、周囲は講義に入っているのか、教授の声がかすかに漏れ聞こえるのみであった。
次の時間までは1時間以上あったが、そんな時間はすぐに過ぎてしまうのだろう。部屋の電気が着いていないことは外から見てもわかり、それはそこに誰もいないことを証明しているようにも思えた。
 無遠慮に扉を開くのはいつだってエレウセウスで、メルヒェンやイヴェールは彼の後をついて歩く。3人とも出身も境遇も違い、ここに来て初めて知り合った者同士だったが、どことなく似た匂いを感じ、気づけばいつも一緒にいるようになった。
 真ん中隅の席を陣取り、次の講義の準備をするのはメルヒェンで、イヴェールは講義前は大体寝ているし、エレウセウスはチャイムがなった後に資料等の準備を始める。
「そういえば、今日はレポート提出だったね」
「そうだな…」
「書けた?」
「何とか。おかげで寝たのは日付変わってからだ」
 メルヒェンとエレウセウスがそんな話をする中、一人イヴェールが何がなんだかわからない、という表現で二人を見ていた。
 既に睡眠体制に入っていたため、机に半分寄りかかった格好だ。
「え、え?何の話?レポート?」
「シラバスにあっただろ、期末考査やらない代わりに数回レポートあるって。先週言ってたじゃないか」
「わ、忘れてた…!」
 泣きそうな顔をするイヴェールを見て、早起きなんて珍しいと思ったが、そんなことだろうなぁ、とメルヒェンはぼんやりと考えた。勿論、泣かれるのはごめんなので、口に出すようなことはしない。
 焦るイヴェールを眺めながら、エレウセウスが溜め息をつく。彼も彼で、イヴェールを子供っぽいとは思っていた。
「持ってくるの忘れたから来週出すって言っとけ」
 先生甘いから許してくれるさ、とエレウセウスが付け加えると、彼はほっとした表情になる。まだ解決出来たわけでもないのに、くるくると良く変わるなぁ、とメルヒェンは彼を見て思った。
 鞄に入れたままだった筆記用具を取り出そうとしたとき、じゃらりと携帯のストラップに触れて、メルヒェンはふと、朝から携帯電話に触っていなかったことを思い出した。
鞄から取り出して見れば、メール受信の示す緑色の点滅が目に入る。メールを受信すること自体が珍しいこともあり、メルヒェンは疑問に思いながら二つ折りの携帯電話を開いた。
「……?」
「どうした、メル」
「知らないアドレスからメールが入ってる」
 未開封のメールを開いて、メルヒェンはそのまま動きを止める。間違いメールかとも思ったが、そうではなかった。
「メル?」
 画面を凝視したまま、動かないメルヒェンを疑問に思い、エレウセウスはそのメール画面を覗き込んだ。いつもはそうしても特に何もないから、今回もそうだろうと踏んで。
 けれど、メルヒェンはエレウセウスのその動きを敏感に察知してか、それを抱えるように隠してしまった。
「メル君?顔赤いよ?」
「き、気のせい!」
 そうは言ったものの、顔に熱が集まってきているのはメルヒェン自身よくわかっていた。にやりと笑ったイヴェールが、その手に抱えられた携帯電話を浚っていく。
「あっ、イヴェール、待って…!」
「なになに…?」
 彼は特にこういうとき、遠慮というものを忘れる。好奇心が疼くのには勝てないのか、メルヒェンの方が軽くあしらわれてしまう。
 あたふたとしたメルヒェンの様子にエレウセウスも興味を持ったのかイヴェールの持つそれを見た。
「え…何コレ」
「だから見ないでって言ったのに!」
「メル」
 エレウセウスに名を呼ばれ、恐る恐るメルヒェンは彼を見た。エレウセウスは一人暮らしのメルヒェンのことを案じていて、メルヒェン自身、心配するようなことでもないと思っていることでも、よく説教される。
 昨日何があったのかと彼に問われれば、メルヒェンには答えないと言う選択肢はない。それが何故と考えたことはなく、メルヒェンは特に疑問も持たずに、昨夜の出来事をぽつりぽつりと話しはじめた。当然ではあるが、昨日の朝のことは一部伏せておいた。
 エレウセウスの眉間の皺が深くなるにつれ、メルヒェンの様子が段々と縮こまっていく。エレウセウスははぁ、と一つ溜息をつき、イヴェールは呆然とメルヒェンを見ていた。
「僕のメル君がっ…!味噌汁ってどういうこと!?なんなのこのメール!?」
「うるさいイヴェール。……メル、お前はもう少し危機感を持て」
「だって、困ってたし…というか男の人だよ?」
「だってもへちまもない。純朴過ぎる私のクソ兄貴だってさすがにここまでじゃない」
「メル君!世の中は怖いんだよ!」
 つかみかからんばかりの勢いでイヴェールからは問い詰められ、エレウセウスからは静かになじられ、メルヒェンはたじたじとなる。何故ここまで言われるのか、彼にはわからないし、イヴェールに対しては、お前が言うなと突っ込む余裕もない。そこまで来て、メルヒェンはふとあることに気づいた。
 そういえば。いつの間に、メールアドレスを知られていたのだろうか。当たり前のことだが、教えたつもりはない。
 メールの内容としては、昨日の礼と、昨日の話を本気にして良いなら、と前置きをした上での『味噌汁が飲みたい』。
 リクエスト?と首を傾げるが、そもそもメルヒェンは彼の帰宅時間を知らない。恐らく一定ではなく、日によって変わるのだろう。
「メルが信用した相手なら何も言わない。けど、昨日の今日って言うのはどうかと思うぞ」
「ごめんなさい…」
 窘めるように言われ、しゅんと肩を落とす。エレウセウスからすれば、メルヒェンは純朴過ぎる。己の兄も人を疑うことをあまりしない方だが、メルヒェンのそれは兄以上だ。
 恐らく彼は、男だから良いと思っているのだろうが、それは誤りだと知ってもらうにはどうしたらいいのか、エレウセウスにはわかりかねていた。
「メルはそいつを信用したんだな?」
「うん…」
「なら何も言わない。だけど、世の中イイ人ばかりじゃあないんだ」
 遠回しに次は気を付けろと言われて、メルヒェンは申し訳なさそうにエレウセウスを見る。イヴェールは相変わらず意味のわからないことをぶつぶつと言っているが、エレウセウスはそれをもう視界に入れるつもりがないらしい。
 エレフは大人だなあ、自分とは大違いだ、などと考えて、同じ歳の筈なのに、何故ここまで違うのだろう、と少し気を落とした。きっと彼とは、育った環境が違うのだ。世界が違うと思える程には、きっと。メルヒェンはそう、半ば無理矢理自分を納得させた。