となりの。1-3 | ナノ


 結局それからは、誰にも問い詰められることはなく、けれどだからと言って気分が晴れることもなく。悶々とした気持ちのまま、メルヒェンは帰宅の途に着く。
 図書館が閉まるまで勉強していたため、あたりはすっかり真っ暗だ。こんな時間まで学校にいても咎められないのが、一人暮らしのよいところである。エレウセウスは実家暮らしだし、イヴェールに至っては知り合いのところに居候だと言っていた。だからだいたい彼らは早い内に帰ってしまう。
 メルヒェンの住むアパートは両側に階段はあるが、メルヒェンはいつも部屋番の若い方から上り下りする。特に意味はない。癖だ。
 今日も一日疲れたなあ、と思いながら、金属音を響かせて階段を上る。
 電灯が主な光源で、それを頼りに部屋の鍵を鞄から漁った。いつも同じ場所に入れておけば良いのだが、それをしないメルヒェンは大抵鍵を探している。
 ようやく鍵が見つかって、ほっと息を一つ吐くと、前の方から自分のものではない音が耳に届いて、メルヒェンは顔を上げた。
「……?」
 薄暗い中でも、その姿はよくわかる。赤のリボンで緩くまとめた金の髪。あの時は、髪は流されたままだったけれど、きれいなことに、変わりはない。
「あ、」
 メルヒェンの声に、彼も気付いたらしい。ポケットに入れていた手はそのままに、彼はメルヒェンを見た。
 蒼と碧の瞳。まるで海のようなその瞳に、一瞬メルヒェンの言葉が詰まる。
「貴方は朝の、き、キス魔!」
「…静かにし給え、人聞きの悪い。今何時だと思っているのかね?」
「う……っ」
 目を細めて窘めるようなその口調に、メルヒェンは口を噤む。その声色が、少し呆れているようにきこえるのは気のせいだろうか。
 しばらく言葉はないままだったが、ふいに彼が目を逸らして、溜め息を一つ漏らした。
「くそ、やはり置いてきたのか…?癪だが、コルテスのところに行くしかないか…」
「…?……鍵がないんですか?」
「…らしいな」
 そこからしばらく言葉が止まる。ばつの悪そうな表情をしているのが、薄暗い灯りの中でもよくわかった。
 少しの逡巡の後、メルヒェンは再び声を上げる。
「あの…私の家に泊まりますか?無くしたわけではないんですよね?」
 ぎょっとしたような顔で、彼がメルヒェンを見た。メルヒェンには、何故そのような顔をするのかわからない。近所のコンビニの袋を下げたまま、彼はメルヒェンを訝しげに見た後、口を開いた。
「君は…名も知らぬ相手を部屋に上げるのかね?」
「え、だって、困っているでしょう?
 あ、名前を知らないのが気になるんですか?私の名前はメルヒェンです」
「私の名はイドルフリート…っていやそういうことじゃなくて、君は人を疑うことをだな…」
「じゃあ、どうしますか?」
 イドルフリートと名乗る彼は、内心葛藤していた。現時点で彼には三つの選択肢があった。上司の家に行くか、野宿するか、会ったばかりの少年の申し出を受けるか、である。ホテルに行こうにも、いつも最低限の金銭しか持っていないため難しい。
 上司の家は何度か行ったが、その度に身の危険を感じるので最終手段としておきたいし、野宿はさすがにちょっと、と言った具合で、実のところ、イドルフリートにとって、メルヒェンの申し出は願ってもないことだった。
 朝の出来事が遠い昔なのか、何故そんなに人を信用できるのか、イドルフリートにはわからなかったが、別段裏もなさそうな子供なので、特に気にすることもないだろう、と彼は判断した。
「…では、お言葉に甘えさせてもらおうか」
 ぽつりと小さく言って、イドルフリートはしっかりとメルヒェンを見た。
 本当に親切心からだったのだろう。イドルフリートがそれを受けたことが嬉しかったようで、メルヒェンは屈託のない笑みを浮かべて、どうぞ、と扉を開けた。
 メルヒェンの後について、イドルフリートは彼の部屋に上がる。
 掃除してなくて、と彼は言うが、そんなことはない。彼の身分上、本やらなにやら物は多いが、しっかりと整理されていてわかりやすい。
 彼の性格か、育った環境なのかはわからないが、もしかしたらそのどちらもなのかも知れない。
 基本的に物がない、自分の部屋とは大違いだと、イドルフリートは思う。
「晩ご飯は済ませました?もしまだなら作りますけど」
「ああ、構わないでくれ給え。買ってきたから」
 ぷらぷらと白い袋を見せるように揺らす。今日のメニューはスパゲティだ。温めてもらってからそう時間は経っていないから、まだ温かい。そうですか、と言う声がどことなく寂しそうなのは、彼は人に構うのが好きだからだろうか。
 小さなテーブルの上にあった本をどけて、何とか2人が食事できるスペースを空ける。そもそもテーブルが1人用なのか、片づけてもそこまでの広さはない。
「先、食べてて下さい」
 そう言って流しへと戻り、何やらかちゃかちゃと音がするのを、イドルフリートは何とはなしに聴いていた。料理をする音など、久しく聴いていないな、などと考えながら。
 ぼんやりしていると、メルヒェンは手にお盆を持ってテーブルまで戻ってきた。彼が持ってきたのはオムライス、スープつきである。そのカップは二つあり、片方はイドルフリートの前に置かれた。
「これは?」
「よかったら、口に合うか、わかりませんが」
 照れたように笑うその表情は、年相応の子供だと感じさせて、イドルフリートにとっては印象良く映った。
 ありがたくいただくよ、と受け取り、自分が買ってきたスパゲティの横に置くと、プラスチックの器でも、立派な手料理だとすら思えてくる。
 行儀良く頂きますと手を合わせた後、オムライスを口に運びながらも、心配なのか、メルヒェンはイドルフリートをちらちらと見ている。
 気付かれてないとでも思っているのだろうか。わかりやすいその行動に、イドルフリートはくすりと笑った。
 口にすれば優しげなコンソメの味と、目の前の彼の様子に、身体だけでなく、気持ちも温まるような気がした。
「……何ですか」
「いいや、何にも。おいしいよ、手料理なんて久しく食べていないからね」
「いつもは何を?」
 くすくすと笑うイドルフリートを怪訝そうに見てメルヒェンは言った。
 彼が日々、どのような生活をしているのか、それを訊いたのは単なる好奇心でしかなかった。メルヒェンにとって、イドルフリートは興味を引く存在だ。普段いるのかどうかすらもわからない部屋、思い返せば新聞の類だって、乱雑に突っ込まれたままで、時たま無くなっていた気がする。日常、ここに住んでいるわけではないのかもしれない。
 メルヒェンがそこで暮らしはじめて2ヶ月、イドルフリート本人どころか、部屋に灯りが点いているのすら見なかったのだ。そう思うのも自然な流れだろう。
「普段はコンビニ弁当だったり、カップヌードルだったりだな。自分で作ることは全くない」
「うわぁ…」
 思わず言葉がもれたのだろう。引くわぁ、と身体が体現している。その反応にイドルフリートがじとりとメルヒェンを見て不機嫌そうな表情となった。
「何かね」
「それで…身体は壊さないのですか?」
「今のところ特に問題はないな。料理は苦手でね。しなくていいものなら一生したくないし、食べるものは出来合いを買えば…」
「それじゃだめです!」
 急に大声を上げたメルヒェンに、イドルフリートは驚いてフォークを止めた。言葉を失った彼が見返すその目は、どこか決意のようなものが見え隠れしていて。若干嫌な予感がする。
 えっと、メルヒェンくん?とイドルフリートは恐る恐る声を掛ける。メルヒェンは、鋭く彼を見据え、いずれは自分の首を締めることになるかもしれない宣言をする。
「明日から、僕がイドルフリートさんのごはんをつくります!」
 えぇー。そうとでも言いたくなる。
「私は本気ですよ!」
 続けるその言葉に、イドルフリートは少し違和感を覚えたが、それよりも今は、彼の謎の決意をどうにかする方が先決だった。
 これまで、コンビニのカップヌードル、外食は御用達で、自室のキッチンは綺麗なものだ。どうも自分は待つことが苦手らしい。困ったものだが直す気はない。
 実際、目の前のオムライスはとても食欲をそそるし、今口にしたスープだってとてもおいしい。イドルフリートは揺れていた。しかし何より、固辞したところで彼は折れてくれなさそうだ。どうしてこうなった。
 イドルフリートがぐるぐると考えている間も、メルヒェンは彼を見たままだ。これは、もしかしなくても、返事ははい、かJa.しか受け付けてもらえそうにない。一つ溜め息をついて、イドルフリートはこの世話好きの少年の決意を受け取ることにした。
「わかった、わかったから。私のことはイド、と呼んでくれ給え。あと、君も私に気を使う必要はない」
「ぇ、なんの…」
 意識してか無意識でか、さっきから一人称が入り乱れている。反応からすると無意識か。一応、警戒でもされていたのだろうか。そこになぜかものすごく安心する。
「僕と私、どっちが本当の君なんだい」
 手を伸ばしてさらりと髪を梳く。柔らかくて触り心地がいい。目を瞬かせるその反応に、本当に気づいていなかったのか、と至る。
 食べ終わった容器を袋に入れ、テーブルに肘をつく。幼さを残した反応が、イドルフリートからすれば実に可愛らしい、とも思える。朝はFrauと言われた仕返しのつもりでしたことだったが、別にFräuleinでもいいんじゃないか、とすら思えてくるから不思議だ。
 そういえば、彼のことを学生だと決めつけていたが、良く考えれば名前以外は推測でしかなかった。それは、特に今知る必要もないだろうけれど。
 一人で過ごすことにも退屈していた頃だ。この少年が飽きるまで、付き合ってやっても悪くない、と柄にもなくイドルフリートは考えた。
「ぼ、僕は…私?あれ?」
 意識するのは初めてなのだろう。沸騰してしまうのではないかと思うほどには混乱しているメルヒェンを見て、イドルフリートはくすりと笑う。
「何にせよ、楽しみにしているよ、メル」
 一回りまでは離れていないが、確実にいくつも年下のメルヒェンを、弟でも見るかのように目を細めて優しげに笑ったあと、嬉しそうに笑い返す彼を、イドルフリートは意識せずに撫でたのだった。



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2011.10