となりの。1-2 | ナノ


 午前中の講義は、全く頭に入らなかった。何度忘れようとしてもぐるぐる回るきれいなひとと、唇の感触。多分人に見せられない顔になっているんだろう、とメルヒェンは思った。これが、誰かと一緒に受けている講義でなくて本当に良かった。1限目もそうだったが、誰か、例えばイヴェールあたりと一緒だったら、からかわれること必至である。
 メルヒェンはノートも取らずに頭を抱えた。広い部屋の後ろの方で、一人頭を抱える学生など、受講者数の多い講義では気にもされない。教授も淡々と内容に添って進めるだけだ。
 90分が嫌に短く感じたのも、答えの出ない思考の迷路に迷い込んでいたからだ。まさか、開かずの部屋に住んでいるのが、あんなひとだとは誰も思うまい。さらりとした金の髪と、美しいと形容されても不思議じゃない瞳が、メルヒェンの思考を乱していく。
 それから、耳に残る声。高めではあったがあれは確実に女性のものではない。と来れば自然とあのひとは彼、ということになる。きれいだった。確かにきれいなひとだった。けれど確かに、
「男のひと…」
 小さい呟きは誰にも伝わらずに霧散した。それとほぼ同時に終業のチャイムが鳴っても、しばらくメルヒェンはその場を動くことはなかった。
 食堂では友人が席を確保しているはずだ。彼も彼で講義を受けているのに、何故かいつもしっかり席を取っているから、メルヒェンからしてみればありがたいことこの上ない。けれど今日は、そこまでの道のりが気重で仕方ない。
 ふと視界の片隅に見慣れた人影が映って、メルヒェンはさっと駆け出していた。
その背中にぶつかるように抱きつけば、ぶつかられた方は前のめりにこそなるものの、日頃の鍛錬か無様に転ぶような事はなかった。
「っ、エレフ!」
「うわっ…何だ、メルか。どうしたんだ?」
「うぅ…」
 ぐしぐしと背中に額を押しつけるメルヒェンに、問うても答えは返らず、エレウセウスは歩き出す。身体に回された腕はそのままだから、メルヒェンは半ば引きずられる形になってしまう。それでもメルヒェンが手を離すことはなく、慣れているのかエレウセウスの足取りも軽やかなものだった。しかし、さすがに階段まではそうもいかないので、多少強引に引き剥がし、代わりにその手を取ってやる。
メルヒェンは未だ俯いているから、エレウセウスに彼の表情は見えないが、いつもどこか顔色の悪い彼にしては覗く耳が赤いから、何かあったんだろうなとはなんとなく思った。
「メル、食堂着いたぞ」
「……」
「今日昼は」
「…………もってない」
 小さい呟きを聞き漏らさず、エレウセウスはメルヒェンの手を取ったまま列に並ぶ。今日の日替わりは鮭のムニエルだ。洋食なのに味噌汁つき。学生食堂とはそんなものである。
 こういう時、メルヒェンが自分から動こうとしないのはいつものことだったため、さして気にすることもなく、自分と同じものをメルヒェンのトレイにも置いていく。
「ほらメル、行くぞ」
「うん…」
 支払いを済ませてから、友人が待っているであろう席を探す。目立つ銀の髪は、驚くほど容易に目についた。疲れたのかなんなのか、テーブルに突っ伏していたため、エレウセウスは声も掛けずに椅子を引いた。メルヒェンも同様である。
 彼の隣の椅子にある鞄は、口が大きく空いていて、財布がまるで盗って下さいとでも言わんばかりに、その姿を主張している。無防備な、と眉を顰めてからため息をついて、エレウセウスは彼の頭を挨拶代わりにぺしん、と叩いた。
「んぁっ!!何する…ってエレフ!」
「おはようイヴェール。まずはその無防備な財布をしっかりしまえ」
「Bonjour、エレフ!財布…?あ、そうだね!」
 イヴェールと呼ばれた彼は、悪気のない人懐っこい笑顔でガサガサと鞄を弄る。
 不意に彼がメルヒェンを見るが、彼は俯いていて相変わらずその様子をみることは出来ない。
「ねぇ、…メル君なんかあったの?」
「知らない。私もさっき会ったばかりだから」
 メルヒェンは言葉も発さずにもくもくと鮭を崩して食べている。メルヒェンは魚の食べ方が巧い。今日は切り身だったからそこまで技術を要しないけれど、先日塩焼きを頼んだ時は器用に骨と頭だけになっていた。それを見て二人は酷く感心したものだ。
 相変わらずメルヒェンは俯いたままで、何か思い詰めたような表情をしているのが、長い前髪の間から僅かに窺い知ることができた。
 それでも箸を止めないのがメルヒェンらしいといえばらしい。
 いい加減じれったくなったのか、隣に座るエレウセウスがメルヒェンの頬をつねった。
「っ…いひゃい!いひゃい!!」
「辛気臭い顔をするなメル、なんかあったのか?」
「うぅ…はなふ、はなふから、はなひてっ!」
 本当に涙を浮かべ始めたメルヒェンの頬を、頃合を見て解放し、エレウセウスは中途半端に残ったままの昼食を進める。頬をさすって彼の方を睨むメルヒェンだが、彼相手にそれは通用しないと痛いほどわかっていた。
 案の定気にとめた様子もなく箸を進めるエレウセウスと、メルヒェンの様子が気になって仕方がないイヴェールに挟まれて、メルヒェンは肩を竦める。うぅ、と呻いても、見逃してくれそうもないことは重々承知の上、どうやって話そうか、とメルヒェンは悩むが、時間ばかりが過ぎることに痺れを切らしたか、エレウセウスが再び頬に手を伸ばそうとしたので、彼は慌ててその手を制した。
「話すよっ!話すからそれは止めて…ほら、僕の家の隣!前話しただろう?」
「それって、開かずの部屋のこと?」
「そうそう、その部屋の人に会ったの!」
 勢いに任せるとはこのことか、堰が壊れたように話し始めるメルヒェンに、昼食のパンを頬張るイヴェールが返す。心なしか、メルヒェンの顔はまだほんのり赤い。
「どんな人?」
 興味津々、とばかりにイヴェールが目を輝かせているが、それに反して再びメルヒェンは顔を俯かせた。
「き…金の髪の…きれいなひと…」
 ぼそぼそとした言葉は、ともすれば喧騒にかき消されてしまいそうだったが、しっかりと聞き取った二人は同時にメルヒェンを見る。
「……女?」
「……恋?」
「ち、ちがう!そんなんじゃない!」
「じゃあ何?」
「えぇと…っ!………っ!」
 沸騰しそうな勢いで顔を真っ赤にしたメルヒェンに、エレウセウスとイヴェールは互いに顔を見合わせた。これは何かあったと思わざるを得ない反応である。
 メルヒェンはメルヒェンで何か思い出したかのようにうぅぅ…とうなり声を上げていて、会話にはならないような状態だ。そりゃそうだろう。男性を女性と間違えた上、その男性によりにもよってキスされたなどと。言えるはずもない。
 気づけば3限目開始の時刻が迫っていた。
「メル、もういいから昼飯食べろ。次教室は?」
「僕211ー!」
「お前にはきいてない」
「………321…」
 ひどい!というイヴェールを完全に視界の外へ追い出し、そこならば席の争奪戦も激しくないから、遅刻さえしなければいいか、とエレウセウスがそう思って頭を撫でると、撫でられた彼はコクリと頷いて、残り僅かな白米を口に押し込んだのだった。