虚構の恋5 | ナノ


 ――頁はめくられる。物語は終末へと走り出す。


 越えた海の向こう。未だ知られざるその国の森で、彼は走っていた。
「はっ…は、」
 耳鳴りと、頭痛。指先から無くなっていく感覚。表には出さないように、誰よりも目の前を走る彼に気取られぬようにすることに、神経を集中させる。敵の見えない恐怖はとうに過ぎた。今はただこの森を抜けるだけ。
 結局はここに還るのか、海が良かったなとイドルフリートはどこか冷静に思う。限界が近い。地面が覚束なくなるのを感じる。戻れ、と言われているような気がした。
 知らない振りをし続けたそれは、手を汚す度に大きくなった。始めは小さなその違和感が、無視できないものになったのはいつのことだろうか。けれど今はただ、彼を逃がすことだけを考えればよい。
「コルテス、いいか」
 イドルフリートが話しかけるが、コルテスは答えない。前を向いたまま、走り続けている。返答がなくても構わずに、イドルフリートはその先の言葉を続けた。
「君はそのまま走り給え。決して後ろを振り返るな。君は唯、この森を抜けることだけを考えればいい」
「…イド?」
 手を伸ばし、触れる距離のその背を、一度だけ指先で小さく押した。もう触ったことすらも、イドルフリートの指ではわからない。突然のその行動に、いぶかしむようにコルテスが彼を見た。笑っていた。
 ふいにその姿が遠ざかる。ゆっくりと足を止めるイドルフリートを、コルテスが振り返りその手を引こうとしたとき、前を見給え、と漏らした後に彼らしからぬ、声を大きくして言った。
「さぁ諸君、諸君の腕の見せどころだ。――将軍を、守ってみせたまえ!」
 守るのは自分だ、と言ったその口で、その彼を守れ、と。コルテスが、小さく彼の名を呼ぶ。嫌な予感がする。否定し続けた時間が、終わっていく予感が。
 足音が遠ざかる。彼が足を止めたのだ。けれどコルテスは、イドルフリートの言葉が呪縛となったかのように、走るのを止めることは出来なかった。
「さぁ、約束の時だ。――…Adelante」
 背に届いたその言葉を、理解したくない。きっと彼は笑っている。イド、と叫ぶように呼ぶ言葉は、届いただろうか。それを確認する術はない。
 次第に遠くなるその声に笑んで、イドルフリートは今まで走ってきた道を振り返った。薄暗い森、空は木々で覆われ、今の時間もわからない。
 足止めにすらならないかもしれない。けれど、どうせなら、役に立てたという実感が欲しい。敵意を肌で感じ、冷や汗が伝う。此の手は握れているだろうか。かさりと鳴らす音を、どこか遠くのもののように感じる。
 一刻も早く、彼が海にたどり着けるように。右手に剣、左手に銃を取り、イドルフリートは笑った。
 ただ、翻弄できればいい。気を引きつけ、彼が森を抜けられるだけの時間を、少しでも稼げれば。
「私は嬉しかったよ。ずっと縛られていると思っていた。君の言葉で、私はここまで来られたのだから。
 ずっと、君と同じ時間を生きたかったが、それも無理のようだ。だからせめて…」
 イドルフリートが動く。何人居ようが関係ない。がむしゃらに剣を振るい、銃口が火花を発する度に、次第に感覚が崩れ失せていく。
 もう、痛みは感じなかった。
 衣服が裂かれ、血が滲み、その身体を赤く染めようと、イドルフリートは後に引かないし、その動きが鈍ることはなかった。その口元には笑みすら浮かび、それは彼らに恐怖を与えるのには十分でもあった。
「…せめて私は、君が見せてくれる先への、道で在りたい!」
 彼の母国語で叫ばれるそれは、その場の誰からも理解されないものだったが、彼はそれでも良かった。誰を狙うでもなく、銃弾が放たれると同時か、その方が少し早いか。
 その時には、彼の姿はもう、何処にもなかった。地に落ちた赤すらも綺麗に、まるで彼が虚構か何かだったように。
 そして―――







 ――その先の頁は白紙。


 いずれ綴られるのか、もう綴られることはないのか、それはわからなかった。いくらか諦観したように、イドルフリートは目を閉じる。その裏に想像を描いたところで、それに色がつくはずがないことは、もう十分すぎるくらいわかっていた。
 その後ろに立つメルヒェンが、幾らか悲しそうな表情でその様子を見ていたが、イドルフリートはそれに気づかない。
 彼は、確かに人だった。それは其処において、曲げようのない事実だった。
 けれど、彼が人ではないというのもまた、曲げようのない真実だった。
 物語の策者であり、童話の原点、始まりの名を冠する彼の役割。『メルヒェン』は、彼が最後に唄った童話だ。彼を最後に、イドルフリートは童話を唄うことをやめた。気紛れに唄ってみたところで、ただ、虚しいだけだったから。
 それはいつのことだったか、もう誰も覚えてはいないのだろうけれど、気づいたとき、彼はすでに其処にいた。役割だけを与えられ、ただそのためだけに居続けた。何の為かも、まして誰の為かも知らなかったし、それは寂しいものだった。寂しいのは嫌だった。だから逃げ出した。眩いその場所に。
 彼のために人を傷つけ、彼の背を追ったことの罰が、これなのだろうか。
「メル」
 イドルフリートが後ろに立つメルヒェンの名を呼ぶ。濡れたような黒い髪を揺らして、メルヒェンはイドルフリートを後ろから抱きしめた。
「何、イド」
「メル。君はやはり先に往き給え。ずっと留まっている必要はない」
「嫌だ」
「メル、聞き分けなさい。君は往けるのだから」
「貴方を独りにはしない。だって君は、」
 ――独りが嫌なんでしょう。だから僕を唄ったんだ。
 駄々っ子のような声色ではあったが、その言葉は確かに彼を思ってのもの。
 イドルフリートが諦めたように溜息をつき、首に絡む腕を解くと、メルヒェンは大人しく腕を退かした。己の紡いだ仔に、慰められるとは、とイドルフリートは自嘲する。 彼にはわかっていた。イドルフリートに唄われ生まれたからこそ、彼のことをメルヒェンはよくわかっていた。
 焔を持たないこの身体では、温もりを与えることはできないけれど、少しでもその心を満たせたらいい。
 井戸に墜ちたメルツの衝動を元に、イドルフリートによって与えられた役割は、今なお生き続けている。それは彼とてまだ同じことだった。
 彼は其処から動けない。忘却に捕らわれ、縛られたままで、彼は役割を果たし続けている。いつか、ここから羽ばたける日まで、あるいは迎えがくる日まで。
「君が果たしただろう約束を、私はまだその続きを知らない」
 そこにはいない誰かに語るように、イドルフリートは言った。優しげな声色だった。常の話し方とも、メルヒェンに対するものとも違う、聴いたことのないくらいの、柔らかな口調だった。
 不意に机を離れ、窓際に立つ。めまぐるしく過ぎる、朝と夜、光と闇。その繰り返しは、世の必然。生物が呼吸するのと同じように、当たり前のこと。
「はやく、と願っても叶わないならそれでいい。
 どれだけ経っていても構わないし、君が私を忘れていても、それならそれでいいだろう」
 イドルフリートが歴史となり、ここから抜け出すか、彼が忘れられて、ここまで堕ちてくるか。
 あれからどれほどの時間が経ったのか、その感覚もないここではわからないことではあるけれど、いつかまたを願って、イドルフリートは窓枠に指を這わせる。死の概念すら忘れ果て、もう紡がれない童話の代わりに、この唄を。
「君の生きた時代を恨むことはしない。この身の上を、もう憾むことはない。
 だから必ず、必ず其処で逢おう――コルテス」
 彼らが、拾い上げられる日まで。唄は、紡がれ続ける。彼が恋した、現実に向かって。




 ――そして、歴史だけが残った……。
   其の歴史が事実であれ虚構であれ、紡がれた唄に嘘はない。
   彼は待ち続けるのだろう。
   約束を果たす、其の日まで。







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嗚呼、やっと逢えたね



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2011.10