ぽつり、落ちてきた雨粒が頬を濡らした。彼女の横で揺れる空色が、間の抜け声を上げたときにはすでに遅く、黒く厚い雲が空を覆っていた。拙いな、言葉程焦ってはいないが、彼女がそう呟いたのと同時に、まるで桶に入った水を全部引っ繰り返したように、水の粒が地面に叩きつけられては流れていく。そんな中二つの影は、逃げるように駆け出した。それは八つ時近くのことだった。


「一郎太……いや、やっぱり何でもない」
「何だ?言い濁すなんてお前らしくないな」


ぼたぼた、軽く絞っただけで水滴が落ちた。さらしと襦袢のような薄い布切れを体に巻き付けただけの姿で、自らの着物を乾かすなまえを、出来る限り視界にいれないように努力する一郎太も、似たような格好をしている。偶然道で会って、少し立ち話をしているうちに夕立に降られ、なまえの家に来た。今に至るまでの話はこれだけのことだ。
囲炉裏に火を焚き付け、ほうと息を吐いた。一郎太となまえは友人であり、なまえにしてみれば恩人であり、逆に一郎太にとっては、どこか世俗離れした雰囲気をもち、男のような話し言葉を使う女は興味の対象だった。
しかしながら、如何せんこの状況は気まずい。格好が格好なだけに相手をじろじろと見るわけにもいかず、変に緊張した雰囲気が沈滞していた。今何か話を切り出さなければ、この沈黙はひたすらに続く。そう思ってなまえは口を切ったのだが、口下手な彼女にしては何とも切り出しにくい話題だった。

「いや、そのだな……失礼なことを聞くことを前提で話すんだが、一郎太は大体生まれてからどれくらい経つんだ?」
「俺か?んーそうだな、そう長くはないが五、六十年って所か?」
「そうか……」
「どうしたんだ?」
「いや、若いなと思ったんだよ」
「そういうなまえは……」

言葉半ばで一郎太は口を閉じた。というよりも、続きは強制的に飲み込まされた。なまえが表情が少ないのは常だが、その目がいつもよりも、何というか、そう遠い目というのはこういうのを言うのだろうか。

「女は……謎が多いほうが魅力的だと秋が言っていた」

聞かれたくないのかと思ったが、顎に手をやり考える素振りを見せたことから、もしかしたら覚えてないのかもしれない。「まあいいけど」と、一郎太はバサバサと豪快に髪紐を解いてかき回した。空色の髪は濡れて、深い青になっていた。見た目に似合わず行動が男前だ。なまえは何となくこれは言ったらまずい気がした。地雷を踏むような真似はしまい。いつかの気まずい雰囲気を思い出し、口をつぐんだ。

「そういえば夏未は元気にやっているか?」
「ん?……あぁ、いつも執務を放り出して城下にいこうとする守を元気に追い掛け回しているよ」
「それは、何よりだな……」
「お前こそちゃんと食べてるのか?顔、白いぞ」
「これは元々だ。案ずることはないさ、私は雑食だ。食えるものは何でも食べているよ」
「苦労してるんだな」
「まだ雑草には手を出してないから安心しろ」

冗談めかした物言いに二人して噴きだした。自然な会話をできるようになる程には緊張も解れ、気付かぬうちに意識の外に追いやっていた外の様子に気を配る余裕ができ、ざあざあと外で聞こえていた雨音は遠くなっていることに気が付いた。
きっと通り雨だったのだろう、そう考え簾で隠された窓枠を視線でなぞる一郎太の耳に、淡々とした声が響く。

「一郎太」

視線をなまえに戻すと、にやりと意味ありげな笑みを浮かべ、指を三本たてた。
「……三桁だ」
「え?」
「さっきの質問だ。細かくは覚えてない」

それが少し前の、歳についての問いに対する答えだと気付いて、一郎太が声無き叫びをあげる。
なまえはそれを見て、満悦そうに目を細めた。

「素直なのはいいことだが、それを私以外の女性の前でやると失礼にしかならないぞ」
「わ、悪い」
「私は気にしないけどな」


自分に正直なのは、お前のいいところだよ。


くすくすと笑うなまえを前にして、一郎太は思う。
ああ、この人は自分よりも長い時間を生きているのだ、と。
うっすらと浮かべた笑みには、子供に向けるような慈愛が含まれていて、何とも言い難い気持ちになったのは、彼一人のみが知るところである。

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