※あまりイタリアについて詳しくないので間違った知識があってもご容赦を!




 空が重たい灰色に塗りたくられ、その重さに引きずられるようにぽつりぽつりと雨が降っていた。
 両親の仕事の都合で半年前にイタリアのヴェネチアに越してきた。見知らぬ国で、言語や文化の違いに幾度も阻まれながらも、都心部の方にある日本人学校に通い、何とか異国での生活にも慣れてきた。
 少ないながらも同じような境遇の友人もでき、それなりに楽しく生活させて貰っている。最初は何かの呪文のように聞こえていたイタリア語も少しだけ理解できるようになって、ご近所さんと朝の挨拶を交わしたりする程度にはなった。
 たまに日本の味が恋しくなる時もあるが、ソイソースなんかは少し大きなショッピングセンターに出向けば普通に置いてあった。寧ろ、人間の順応性とは素晴らしいもので、今ではイタリア料理万歳だ。
 健啖家の多いグルメ大国。流石に現地の人と同じだけの量を食べきることはできないが、此方に来て少しふくよかになった気がしないでもないが、割とスレンダーに見られる典型的なアジア人体型に産んでくれた両親に感謝だ。
 
 閑話休題。
 
 私は今、ここヴェネチアの町で迷子になっていた。
 彼方此方に運河が引き巡らされ、少し歩けば橋にぶつかる。宗教色の強い建物や、歴史が色濃く残る町並みは、コンクリートジャングルで生まれ育った私には、目新しいものばかりで、お伽話のようにきらきらと輝いて見えたのだ。こんな天気でもなければインスタントカメラを片手に、走り回りたいものだ。
 というか、今現在私の手にはインスタントカメラは握られている。少しは女の子らしくなさいと、母が持たせてくれた真っ白なハンカチでくるんだままのそれは、自分の本領を発揮できず、涙は見せぬとばかりと静かに目を閉じている。
 どこかのお店の軒下で雨宿りをさせて貰いながらも、ここはどこであるかと心の声を雨の音に紛れさせて肺活量の許す限り放出したい。迷子になったからといって、心寂しさを理由にめそめそとして許される年齢はとっくに超えていた。偶然散歩に出かけて、知らない場所に踏み入れてみたい、そんな好奇心に引かれて踏みいったは良いものの、帰り道のことまでは頭が回らなかったらしい。そんな自分に腹が立つやら、やるせないやらで、本当に頭を抱え込みたくなる。
 誰かに道を聞こうにも、偶然通りすがりの雨に捕まってしまった所為で、みんな建物の中に入ってしまって、町の騒がしさは一気に削がれた。お邪魔している軒先のお店も、個人経営のレストランらしく、夕方からしかあかないらしい。
 それ以前に私のイタリア語の能力なんて、就学前の子供にも劣っているだろう。もし人を見つけたとしても、状況説明も儘ならない。

「本当、誰でもいいから知り合いいないかな……」

 膝を抱え込んで地面に座り込む。肺が圧迫されて漏れだした言葉は、気弱に擦れていた。相棒に身を寄せてみても、無機質な彼はプラスチックな乾いた態度で微動だにしない。仕方なくそれをポシェットに押し込んで、空を見上げる。
 あまり遅くなって警察沙汰にもなりたくないが、まだ日が落ちるには十分に時間があるし、元々どこか抜けている両親は一日帰らなかったくらいでは、どこかで彼氏と仲良くやっているのではないか等と邪推しそうだ。勿論彼氏なんているはずもない。そして親に連絡も入れずに無断外泊するほどの不良娘になった覚えは一度としてない。

 コンコン

 そんな時だった。室内でないはずなのにどこからかノックが聞こえた。おや、どなたですか?なんて冗談をかましている余裕はなかった。しかしどこから聞こえたのか全く検討もつかなかったし、気のせいだろうかと首を捻る。

 コンコン

 立ち上がってキョロキョロとしていると、再度ノックが聞こえてきた。今度は確かに聞こえた。クルリと後ろを振り向いてみると、見慣れた顔が一つと見知らぬ顔が二つ、ガラス越しにあった。口元だけがぱくぱくと動いているが、何を言っているかなんて分かるはずもない。日本語ならともかく、イタリア語で口パクなんて私のスキルレベルが到達しているはずもない。
 困り顔の私を見て、相手も苦笑していた。ガラス越しに何やら三人組がもめているらしいことは分かったが、そうこうしているうちに、ガラスの向こうの彼らは窓枠の中から姿を消した。
 一体何だったのか。私はもしかしてからかわれていたのだろうか。あ、こいつ濡れ鼠になってしかも迷子じゃね?括弧笑い、みたいな。
 そうしてまた雨の音だけが響く。こんなことなら天気予報をちゃんと見るべきだったと思う。
 本日何度目になるか分からないため息を吐いたときだった。

「なまえ!!」
「っぐぅ」

 名前を呼ばれ、振り向きざまに腹に強烈な一撃。思わず女子にあるまじき呻き声を上げて、ふらりと二三歩後退った。目の前には無造作に跳ねた茶色の髪。
 この類の挨拶はだいぶ慣れたとはいえ心臓に悪い。心疾患へと導いてくれそうな張本人の背中を叩いて解放を促す。

「Ciao!」

 きらきらと星でも飛ばしそうな勢いでウインクをかましてきたのは、運命の思い人、なんてのは冗談だとして、ついさっきガラス越しの面会を果たした唯一の知人で、お隣さんに当たる人、フィディオであった。
 屈託のない笑顔は、先程まで心の半分以上を埋めていた心細さを溶かした。緊張の糸が切れて緩みかけた涙腺はなけなしの矜持で持ち堪えた。
 後ろの扉から顔を出している二人組も、私と目が合うとにこりと笑う。
 ほら、後ろでご友人がお待ちですよ。ちらちらと視線を送っていると、それに気付いたらしいフィディオが、さぁ入ろう!と言わんばかりのジェスチャーをしたので、招かれるままに恐る恐る入店を果たした。開店前のお店に入ってもいいものかと、一瞬思い躊躇ったが、余り深く考えないことにした。

「ここ、こいつの親父さんの店なんだ」
「え、そうなの?」

 目の前にいる赤髪の彼を見てそう言った。経緯はともかく、初対面の人と同席したからには何か言わなくてはと、頭の中の辞典からイタリア語ではじめましての挨拶を諳じていたが、困っているのが見て取れたようで、赤髪の男の子は笑って手を差し出した。

「オレはマルコ・マセラッティ、日本語少しは分かるから普通に話していいよ」

 真ん丸の緑色の目をぎゅっと細めて笑うマルコは、私が恐る恐る出した手を思い切りぶんぶんと上下に降って私にとってはとても有り難い提案をしてくれた。うん、本当に日本語が堪能ですこと。

「あ、それとこっちはジャンルカ」
「よくフィディオから話は聞いてるよ。ジャンルカ・ザナルディ、よろしく」

 柔く笑う彼は、マルコが振り回して漸く解放された手を拾い上げるようにして握りなおした。あまりのスマートさにイタリア伊達男の称号を送りたいと思った。
 どうやら三人はサッカーのイタリア代表のチームメイトらしい。いつもここで練習の後にサッカーの話をしたり、だらだらと過ごすための本部らしい。
 しかし、まあ……何だかすごい人と知り合っていたものだ。思ったそのままに口に出せばマルコとジャンルカは驚いたように私を凝視した。

「フィディオも知らなかったのか?」
「えっ、そんなに有名人なの?」
「いっちゃあれだけど、オレ達もそれなりに有名人だし」
「FFIに出てからは更にって感じだな」
「なー?フィディオとかファンクラブすごいもん」
「おいおいマルコ、そこまで言わなくていいだろ!」

 なまえが変な誤解したらどうするんだなんて聞こえたけれど、恥ずかしそうにマルコの口を押さえるフィディオを横目にジャンルカがこっそりと、フィディオは女の子にもモテモテなんだ、と教えてくれた。うん確かに格好いいもんね。納得納得。
 FFI。フットボールフロンティアインターナショナル、確か正式名称はこんな感じ。世間に疎い私でも流石に名前くらいは知っていた。なんせ、以前同じ学校の先輩にその日本代表選手がいたから。私はフィディオがたまに近所の子供たちとボールを追い掛けているのを見たくらいで、まさか隣に住んでいる人がそんなに凄い人だなんて思わないだろう。

 そうこうしている内に話題は私自身のことに移っていた。出来れば深くまで突っ込まないで欲しかったが、正直にここに辿り着くまでのことを話したら、三人して心細かっただろうと心配してくれた。何なんだろう、イタリア男はみんな優しいのか。嬉しいけれども、そう言う女の子扱いというのには耐性無いからやめて欲しい。嬉しいけど。

「そうか、半年前に日本からねぇ……もうこっちには慣れたの?」
「うん、まあまあね。あ、カフェオレ?マルコ、ありがと」
「どういたしまして。そういや、なまえはゴンドラ乗ったことある?」
「今日が雨じゃなかったらなぁ、ゴンドラ乗せてやれたかもしれないのにね」
「ふーん……って、どういうこと?」
「ジャンルカはゴンドリエーレ見習いなんだよ」

 フィディオがにこにこと自慢げに話す。ジャンルカがゴンドリエーレ、凄く似合いそうだ。爽やかに風に吹かれて観光案内をするジャンルカの姿が目蓋の裏に浮かぶ。

「へぇ!いいなそういうの!」
「まだ見習いだから、威張れるようなもんじゃないんだけどさ」

 ジャンルカははにかみながらも誇らしげに笑ってみせる。

「一人前になったら是非とも観光案内して欲しいな」
「勿論、よろこんで」
「こら、オレたちほったらかして二人でいい雰囲気にならないの」
「そのときは俺たちも混ぜてくれなきゃ」

 いい雰囲気になんてなった覚えはないが、フィディオとマルコが横から茶々を入れてきた。この三人ホントに仲がいいなぁ。マルコが淹れてくれたカフェオレを口元に寄せながらふと窓の外を見れば、曇天の隙間から少し太陽の光が漏れていた。

「あ、雨止んでる……」
「じゃあ帰る?」
「え?」
「帰り道分からないんでしょ?」

 ずず、カップの中を空にして首を傾げた。突然の提案に疑問符を浮かべる。確かに家は隣同士だが、彼の友人たちを放っていいのだろうか?
 もともと三人で遊んでいただろうに、そう思って反論しようと思ったら、フィディオに人差し指を口元に宛てられて遮られた。
 何故か、マルコとジャンルカも仕方ないなと言いたげに肩を竦めた。

「俺じゃ送迎係には役不足かな?」
「送り狼に気を付けるんだよなまえ」
「はは、男の嫉妬は可愛くないな」
「……二人とも失礼だな」
「え、あの……」

 三人の中では話はすでにまとまっているらしく口を挟む余地すらなくなった。さあ、と身仕度をすすめられて店の前で見送られる。
 雨上がり特有のじっとりした空気と雲の割れ目から覗く澄んだ空。惜しむべくはきれいな顔をした有名人たちに囲まれた私が平々凡々であることくらいだろうか。少し周囲の視線が痛い。

「また機会があれば話そう」
「オレも楽しみにしてるから」
「うん、今度はちゃんと道覚えてくるね」

 マルコとジャンルカに手を振って、レストランをあとにした。さり気なくフィディオが私の右手をさらっていて、それに驚いて跳ね上がる私ににこりと笑いかけて「はぐれちゃいけないだろう」なんて言うものだから、何も言えなくなった。
 いつもよりもゆっくりと流れる時間に浸りながら、フィディオは迷いなく進んでいく。この年になって男の子と手を繋ぐなんて思っても見なかったので、どくどくと心臓が煩い。静まり給えー、と心中嘆願したところで何の効果も見せない。気が付いてみれば見慣れた通りに差し掛かっていた。

「今日楽しかった?」
「……うん、友達新しくできたし、色々話し聞けてよかった」
「そっかよかった」

 もう迷うことなどないのに手を離してくれない。少し身を捩った。

「本当はなまえにジャンルカともマルコともあんまり仲良くしてほしくないんだ」
「はい?」
「さっきジャンルカが言ってたじゃないか、男の嫉妬は可愛くないって」
「あー、なんかそんなこといってたね」
「……なまえって人から鈍いって言われない?」

 口を尖らせるフィディオに失礼な、と反撃したかったが、そのことに覚えが無いわけではなかったので沈黙を貫いた。沈黙は肯定だ。私は無意識に頬を膨らます。
 どうやらその仕草が面白かったらしく、ぶはっとフィディオが吹き出した。

「くくっ、なまえはやっぱり可愛いよ」
「誉め言葉として受け取るよ」
「うん、最大級の誉め言葉さ」

 繋いでない方の手でくしゃりと髪を撫で付けられる。くすぐったい気持ちになりながらも、他の女の子たちにも同じような手で触れているのだろうかという考えが過る。フィディオには女の子のファンが多いとジャンルカも言っていたし。
 何気ない素振りに期待している自分がいることに気が付いて、いくらなんでも自意識過剰だと笑った。

「どうしたんだ?」
「いいや、何でもないよ」

 家が見えてきた。そろそろお別れだ。隣同士に並ぶ玄関先で繋いでいた手を離した。指先が名残惜しそうに残って、少しの間宙を彷徨った。
 視線がかち合って数秒、何をするでもなく見つめあう。少し前に屈めば触れ合えそうな距離。そこだけ時間が止まったようだった。

「うーん、まあ……暫くはこのままでいいかな……」

 どれくらい時間がたったのか。きっとそれは数秒の出来事なのだろうが、体感時間は随分と長かった。すいと身を退いたフィディオの小さな呟きは、私の耳まで届くことはなかった。

「それじゃあまた」
「うん、またね」

 何気なく別れて、家に入る。直前に見た、ゆらゆらと揺れる深海の瞳を思い返した。

「今度、いつ試合があるのか聞いてみようかな……」

 イタリア語もたくさん練習しようか。彼の吐き出す異国の言葉はきっときれいなのだろう。
 息を吸い込むと、鳩尾の辺りが心臓のように脈打つ。
 私は身体能力に関して鈍いと言われたことはあっても、色を含んだ好意に気付かないほど鈍感ではなかった。

「期待、してもいいかな」

 その一言を声に出してみると、顔が熱くなるのを感じた。
 多分これが恋に落ちる瞬間というやつなのだ。
 時間差でやってきた自覚に明日からどんな顔で挨拶をすればいいのか、一晩中考えさせられ、結局はいつもどおりの朝を寝不足で迎えることになるのだった。




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