半田が部室の鍵当番、私がマネージャーの仕事を片付けていて、二人きりで部室に残っていた。他の部員はとっくに後はよろしく、とにこやかに帰ってしまっている。沈み切った太陽の光の残りかすが群青の空の裾を橙に染め残しているのが窓から覗いていた。
 後は備品の点検をして、今持っているボールを磨いて今日は終われるはずだ。そう思って無言で仕事に取り掛かっているときだった。椅子にもたれかかって部室の鍵を指でくるくると弄んでいた半田が口を開いた。

「怖いか」

 沈黙の中に落とされた呟きはともすれば吐息と同義に取られかねない。皆が帰ってしまって、しんと静まり返った部室でなければ聞き漏らしていたかもしれない。

「なあ、なまえどうしたらいいと思う?」

 今度は明確に問い掛ける口調であった。そんなに大きな声ではなかったのに、やけに耳の奥に張りついた。喉元に鋭利な凶器を突き付けられているような、ひやりと背筋を冷たいものが走る。
 私の輪郭じっくりとをなぞるように向けられていた視線には気が付いていたので、何とも無い振りをしてそっけなく答えた。

「どうしたの、急に」
「前さ、話さなかったっけ?俺の初恋」
「なにそれ、聞いてないよ」

 笑って嘘を吐いた。
 本当は聞いたことがあった。一年の時に隣の席にいた女子に一目惚れしたのだという。あの時の半田の笑顔は忘れられない。甘ったるいシロップにふやけきった笑みは、どこか艶やかさすら感じさせて、初めて人に絆される感覚を覚えた。できれば思い出したくもない記憶の一つだ。
 素知らぬ顔で吐きだした否定の言葉は、少しだけ揺れていたけれどもきっと気取られない。そう信じて、目の前の彼からそうっと目を離した。

「うそ、つくなよ」

 優しく告げられた言葉は暫く漂っていた。ゆっくりと、操り人形が糸にひかれるかのように、私は顔を上げた。
 にこりと、少女のような華やかさで笑む半田は腰掛けていた椅子から立ち上がって、サッカーボールを磨いていた私の隣に立つ。
 デジャビュ。あぁ、前にも、こんなことがあった。ぼんやりと思った。膝の上からサッカーボールが落ちて、鈍い音を立てた。

「あの時は言わなかったけどさ、なまえって俺を見るときいつも泣きそうな顔するんだ」

 一瞬息の仕方を忘れて、喉の奥がひくついた。

 怖いんだろ、おれのこと。

 一年前、半田の隣の席に座っていた女子、というのは私のことだ。入学してから一週間で席替えしてしまったから、すっかり忘却の彼方へ追いやられていたが、確かに私は半田の左隣にいた。
 半田の思い出を吐露されたその日には気が付かなかったが、幾日かが過ぎて、半田の笑い方を見て気が付いた。というよりも、身体の方が先に反応したのだ。
 柔らかく、睫毛が影を落として虹彩と瞳の境目が曖昧に溶け合う。恍惚とも言わしめるようなとろけるような笑み。普段友人に見せるような突き抜けに爽やかなそれとは違って、ほの暗い。無理に歪ませた曲線を描く薄い唇が開くたびに、肩が跳ねそうになっているのを必死に押さえ込んでいる。それに半田はきっと気が付いている。

「……おれさ、なまえがすきだ、それはお前だって気付いてるだろうけど、恐がらせたい訳じゃないんだ」

 半田は宙を彷徨う私の視線をぴたりと固定させるように、両手で頬を支えて正面から向かい合う。
 どきどきと鼓動がうるさい。怖い、んだろうか。

「だけど、他のやつに俺しか知らない顔見せるのは、いやだ」

“部活他に入る気ないならサッカー部のマネージャーやってくんないかな?”

 初めて話し掛けられたとき、人好みしそうな優しい表情に、初対面の緊張も忘れた。だけど、真っすぐに半田の目を見つめた瞬間にぞくりと身体が震えたのだ。理由は今になってもわからない、けれども

「だからさ、おれだけにその怯えた顔見せてよ」

 頭で理解するよりも先に身体が理解している。私にだけ見せる甘い笑顔が、どうしようもなく私を引き付けて離さないのだ。ぽろりと零れる水滴を撫でる指先が優しい。

(……あぁ、捕まった。)






佐月ちゃんに捧ぐ!

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