世には人に夢を与える職業が数あるといえど、それら全てが希望に満ちあふれたそれでないことを知っている人間は一体何人いるのだろうか、事実を知らぬ一般人らに無慈悲な現実を叩き付けてやりたいものだ、他人がどう思えど、少なくとも僕はそう考えている。たとえば、今まさに僕の眼前で悲鳴とも奇声ともつかない呻きを上げて、締め切りという悪魔から逃れようとしている僕の兄なんかを。

「……あと、三日ですね」

僕がぼそりと呟けば、兄はペンを走らせる手をはたと止めてその顔に絶望の色を一杯に浮かべて此方を見遣った、否、絶望というには少しコミカル過ぎるかもしれない。夢を与える職業と前述したけれど、兄の職業は具体的に言うならば漫画家だ。世の少年少女らに想像力の源を与え、荒んだ社会を生きる大人達に少しの娯楽を提供する、そんな職に僕の兄は就いている。だがしかし漫画家という職はそう生易しいものではなく、夢見る少年少女はその職の真実を知ったが最後、ありとあらゆる現実の辛さと理不尽さを情け容赦など微塵も無しに叩き付けられること請け合いだろう。

「……アシは、」
「僕らとチーフはテスト期間、その他のアシさんも皆揃って欠席ですので一人で頑張って原稿上げてください」

何かを言い出す前にそう返してやれば、兄の表情は絶望を通り越し最早燃え尽きた灰の如く色のないそれと化した。別にこれといって遅筆なわけでもないというのにどうして締め切りに追われるかといえば、兄が極度の面倒くさがりであるからに他ならない。月刊連載でこんなに追い詰められている漫画家というのも中々に珍しいんじゃないだろうか、そう思う毎日だ、締め切り前の数日は特に。

「ああそうだ、言い忘れてましたけど、」

わざとついさっき思い出しましたと言わんばかりの口調で声を掛ける、そうすれば実に生気に欠けた返事が飛んできた、僕の兄はゾンビか何かになりかけているかもしれない。半ば踵を返しつつ、何気ないことのように、あくまで自然に伝えておく。

「次の打ち合わせ、九十九さん宅だそうです」

背後で兄が椅子から転げ落ちたのであろう騒音が聞こえた。説明しておくけれど、九十九さんというのは兄の担当編集者のことだ、二十歳にして中々の手練れであると評判らしいけれど真偽の程は定かではない。しかし兄にとって重要なのは編集さんの弟だ、この際隠しても意味はないのだろうけど兄の人としての尊厳の為に詳細は口を噤んでおくことにしたい。後ろから奇声が聞こえてくるから別段大怪我をしたとかいうわけではないだろう、取り敢えず妙な被害を免れる為に僕は早々に部屋から立ち去った。三日後が、不安だ。



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