あの日、トーマスが名前を呼ばれて面倒くさがりつつも振り返った先には、見知らぬ女の子を抱えて立っているクリスの姿があった。抱えられている女の子はふくふくした真っ赤な頬と宝石のように輝く大きな瞳がひどく印象的で、薄桃色のかわいらしいワンピースを着ていたことも覚えている。
まるで硝子でできた人形でも扱うようにそっと降ろされた女の子は、ぶちまけたデッキと散らばる人形の真ん中で怪訝そうな表情をしたまま座り込むトーマスに物怖じもせず、にっこりと微笑み右手を差し出しながら声をかけてきたのだった。
「はじめまして!」
その太陽のような笑顔に、心底惹かれた。若干七歳、これが若かりしトーマスの初恋である。
正直な話、件の初恋は未だ継続中であった。トーマス自身、自分の容姿が俗に言う美青年であることは重々承知だったので女性から告白される事例は多々あったが、一応了承して付き合い始めても相手に何一つ魅力を感じられない。だからこそ破局も非常に早く、大した関係も築かぬままにどちらかが別れ話を切り出して恋人ごっこはいとも容易く終了するのだった。
先程述べた通り、とある少女への甘酸っぱい初恋が未だ尾ひれをひいているのと元来の女性に対する無関心さも相まって、トーマスはまともに女性と付き合ったことがない。それ故に学校において彼は恋愛に興味がない人間筆頭と思われがちだが、実の所誰よりも恋愛感情に従順であったとも言える。
彼は幼い頃の初恋を未だ胸の内に秘めているのだった、そして今日も。
「……どうした」
「別れ話切り出したらビンタ喰らった」
片頬だけを赤く腫らして帰ってきたトーマスを見て、異国の言語で書かれた本を開いていた長兄は唖然とした。トーマスが説明した内容に何ら嘘偽りはなく、事実、付き合っていた女生徒に別れ話を切り出したところ、相手が涙ながらに奇声を上げつつビンタをかましてくるという実に理不尽な仕打ちを受けたのだ。
ビニール袋を取り出し氷と水を詰めて口を縛って出来上がった簡易氷嚢を腫れた頬に当てながら、疲労感に苛まれたトーマスはどっかりとソファに腰掛けて溜息を吐いた。
「恋愛ってやつは、なんだ……どうにも理不尽で困る」
やけに達観した感想を零す次男に半ば憐れみに近い視線を送りながら、クリスは言葉もなく分厚い本を閉じた。揃いも揃って眉目秀麗な三兄弟はその容姿故に恋愛沙汰に関しては人一倍苦労しているのである、それは当然クリスも当てはまる事例であった。
そういえば以前友人に無理矢理連れて行かれた占いか何かで女難の相が出ていると言われたような気もするが。そんなどうでもいい過去の出来事を思い出しつつトーマスは呻きながらソファに寝転がった、ふかふかのソファは心労の募るトーマスを優しく歓迎してくれる。
ぐったりと身を投げ出し、何気なくローテーブルに視線をやったトーマスの目に、一枚の写真が飛び込んで来た。写真の隅が少々黄ばんでいるところを見るに大分古いものであろう、少なくとも五年程は経っていそうだ。
「なんだ、こ……れ……っ!?」
ひょい、と軽い動作で摘み上げた写真をしかと見た瞬間、彼は頬を刺す痛みも忘れて飛び起きた。頬に乗っていた氷嚢が、べしゃ、と湿った音を立てて絨毯の上に落ちたが、それどころではない。
写真に写っているのは幼い頃の三兄弟、と、一人の女の子。ふくふくした真っ赤な頬と宝石のように輝く大きな瞳がひどく印象的な、薄桃色のワンピースを着たかわいらしい女の子だった。それは間違いなくトーマスの初恋の女の子、九十九遊馬の姿である。
「おい、クリス! この写真何処で……」
「アルバムから出てきたそうだ」
トーマスが言い終わらぬ内にクリスはさらりとその質問を受け流す。懐かしいだろう、とどこか遠くに視線をやりながら言ってくるクリスをほったらかし、トーマスはその古びた写真を食い入るように見つめていた。
記憶に焼き付いているのと同じ、太陽のような笑顔。
それを思い描いた瞬間、彼の頬は痛みとは違った熱を持つ。かぁっ、と灼熱する頬を片手で押さえながら、トーマスは今でも想い続けている女の子の姿を見つめ小さく零した。
「……今、どうしてんだろうな」
会いたいような、会いたくないような。頭の中では、そんな相反する感情がぐるぐると渦巻いて、混沌とした欲望を生み出していくばかりだった。
恋 愛 恐 怖 症
2012.04.02