まさか自分が十三歳にして天涯孤独の身になってしまうとは思いもよらず、遊馬は自分の不運をひどく嘆いた。父も母も姉も祖母も、みんな揃って事故に巻き込まれて亡くなってしまい、残されたのは自分一人だけという孤独感は、遊馬の幼い心に傷を残すのには十分だったのだ。
 暫く前まではそれを嘆いていた筈なのだが、今となっては、遊馬は全く別の事について悲嘆に暮れていた。太陽も沈んだ頃合いの繁華街で、見知らぬ男に声を掛けられ名を確かめられて疑いもせずにはいそうですと答えた瞬間、あれよあれよという間に近くのビルへと連れ込まれてしまい、黒い革張りのソファに座らされて、氷の入った冷たいオレンジジュースを出されて、よく分からない書類を一枚だけ突きつけられて、今に至る。
 最初こそ目を白黒させながらジュースを啜っていた遊馬だったが、書類の確認を勧められて小難しい文章に四苦八苦しながらなんとか内容を理解した瞬間、口にしていたジュースは一瞬にして味の無いそれに変わった。アルファベットの二十五番目に横棒を二本付け足したような記号の後には、これでもかというほどに丸がくっついた数字が並べられている。数学的に言うならば、五千万。書類の一番上に添えられているのはあろうことか、借用書、の三文字で、遊馬は目の前がくらりと歪むのを感じた。

「君の親族が揃って亡くなったおかげで、その借金の返済義務は晴れて君のものだ。おめでとう、そして、ご愁傷様」

 正面のソファに腰掛ける男は、眼鏡の向こうに隠された錫色の瞳を細めると、ゆっくりと席を立って遊馬へと歩み寄ってきた。随分と細身なようで、端正な顔立ちも相まってまるで優男のような印象を受けるが、今の遊馬にとっては、その男が得体の知れない巨大な怪物にすら見える。これがRPGならば直ぐさま逃走コマンドを取りたいところだが、周りはぐるりと同僚であろう連中に囲まれている、成功率が皆無なのは明白だった。
 頭が上手く働かない、唯でさえ家族の死で混乱していたというのに、そこに飛び込んで来たのは別の親族が遺していった傍迷惑な五千万円にも及ぶ借金の返済義務。一介の中学生に一体全体どうしろというのだろうか、悪夢のような展開に目眩がしてくる。
 遂にはふらりと背もたれに身体を預けてしまった遊馬だが、先程まで正面に座っていた男に顔を覗き込まれて、ひい、と情けない悲鳴を上げた。何より恐ろしかったのは、笑顔に反してまるで笑っていない瞳だ。男はこの空間に似つかわしくない爽やかな笑みを浮かべると、片手に持った黒いバインダーで遊馬の頬をぺちぺちと数度軽く叩く。その表紙に並んだ取り立て人リストという文字に、肝が冷えた。

「で、返すあてはあるのかい?」

 男はそう問いかけてきたが、眼鏡の奥に潜む瞳は語りかけてくる、どうせあてなど無いんだろう、と。勿論その通りだ、親族全員死に絶えてしまった遊馬には金を返せるあてなど無かった、世話になっている一家はそれなりにいるが、そこに五千万などという馬鹿げた金額を無心できるわけもない。結局、遊馬の口からは、ありません、という蚊の鳴くようなか細い声が漏れただけだった。
 その返事を聞き届けた男は笑顔など最初から無かったかのように掻き消すと、氷のように冷え切ったその顔に張り付いた口を再び開く。そこから飛び出した言葉は、生命保険は、というまるで死刑宣告のような響きを持ったそれで、今度こそ背筋をいやなものが駆け抜けた。家族にかけられていた生命保険の総額はどう計算しても五千万に満たない、震える唇から正直に、足りません、の一言を吐き出す。
 しかし、男はどうにも納得がいかないとでも言うように眉根を寄せた。バインダーを持っていない片手の人差し指がそっと遊馬の鼻先を突いて、鋭い爪がほんの少しだけ食い込んだ感覚に、遊馬は小さく呻く。

「君の分を足して、だ」

 余りにも冷たい声で問われて、遊馬は泣きそうになった。ふざけるな死ねとでも言っているのか、そう怒鳴ってやりたかったが、本当にそうすれば自分の命が冗談抜きで危ない。今にも叫びそうになってしまう口許を片手で押さえていると、恐怖か不安か、ぼろぼろと涙が零れ出す。喉奥に何かが詰まってしまったように苦しかった。
 泣き出してしまった遊馬に面食らったのか、男は少し困ったかのように眉をハの字にしてみせて、冗談だとも、と声をかけてきた。絶対に嘘だ、さっきの目は明らかに本気の色をしていた、遊馬の胸中でこの胡散臭い男への不信感が募っていく。怒濤のように押し寄せる様々な感情は遊馬の涙腺にかけられたリミッターを見事叩き壊してくれたようで、どうにも涙が止まる気配は無かった。
 遊馬の口腔から溢れ続ける嗚咽に、今度こそ男は心底困ってしまったらしい。近くに立っていた色黒の男に投げるかのようにボックスティッシュを手渡され、男は数枚それを引き抜くと、飴玉のように丸い瞳からぼたぼたと流れる大粒の涙を丁寧に拭った。最後に赤くなってしまった頬を一度ふにりと指先で撫でて、男は遊馬に再び声をかける。

「すまないな、怖がらせてしまった。別段、君をどうこうしようという意図は無い」

 やはりどうにも嘘くさい、遊馬の胸の内に潜む疑念は空気を送り込まれた風船の如く膨れ上がっていく。そもそもどうこうする気が無いのなら、最初から無理矢理オフィスに連れ込んだりしないだろうに、嗚咽さえ止んでいればそう叫んでいるところだった。次から次へと溢れ出る涙をその都度拭ってくれる辺り、ほんの少しは優しさのある男なのかもしれないが何分第一印象が最悪であるが故、遊馬はどうにも男の言葉を信用できなかった。
 借りたものは返すのが道理、それは理解出来るのだが、その義務を成すべき人間が居なくなってしまった時にどうしてそれが他人へと降りかかるのか遊馬にはまるで分からない。借金を遺して死んだ親族は大分遠縁の人間だ、それなのに何故俺に返済義務が回ってくるんだ畜生、遊馬は胸の内で毒づいた。

「……しかし、返すものを返してもらわなければ、此方としても都合が悪い」

 男がぼそりと、そう口にする。その一言だけで、再び嫌な感覚が遊馬の背筋を走った。男はどうするべきか悩んでいるのか、口許に手を当てて考え込むような仕草を見せる。流石に相手は借金取りだ、見逃してくれるなんて事はある訳無いに決まっている、せめて減額でもしてくれれば多少は救いようがあるのだが、遊馬は緊張しながら男の動向を見守っていた。
 時計の短針が、がちん、と大きな音を立てて丁度十の数字を指し示した瞬間、漸く男はアクションを起こした。男は突然に顔を上げて近くにいた連中を呼び集め、遊馬には聞こえない程に大人しい声量でぼそぼそと言葉を交わし始める。集合命令をくらった連中四人が男の言葉に耳を貸すこと暫く、はぁ!?、と揃って驚愕の声を上げたものだから、遊馬の胸中を支配していた不安は遂にメーターを振り切った。仲間にも驚かれるとは一体全体どんな提案をしようというんだ、頭がどんどん冷えていく。
 話が一段落ついたのか、男は実に不満そうな表情を浮かべる四人をほっぽり出して、何故か満面の笑みを浮かべながら遊馬を振り返った。その笑みの恐ろしいこと、ひぃ、と悲鳴を上げながら明らかに怯えた様子を見せている遊馬に、男はかつかつと革靴の底を鳴らしながら近寄っていく。にっこりと綺麗な弧を描く唇が薄く開く、そこから飛び出した言葉は遊馬の心臓を止めるくらいの威力を持っていた。

「五千万返済をチャラにする代わり、ここで一生ただ働きというのは?」

 名案だろうとばかりに言い放たれて、今まで散々翻弄され続けてきた遊馬の脳は遂にキャパシティオーバーによって熱暴走を起こし、幼い意識を強制的にシャットダウンさせた。薄れ行く意識の中で、男達の慌てた声が聞こえたような気もしたが、遊馬にそんなことを気にする余裕など欠片も無く、結局意識を失った身体はそのままソファに沈むこととなる。
 慈悲を与えるにしてももう少しやりようがあったろうに、神様という奴はとんと不器用らしくて、意識を失っている筈の遊馬の目尻から諦めの涙が一筋伝った。



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