心の熱に酔いしれて




卒業式という一大イベントを明日に控えているにも関わらず、ロクに予行練習にも出ないで、わたしは部屋のベッドで寝込んでいた。流行は過ぎ去ったらしいのだが、病院に行けばA型のインフルエンザとのことだ。

丁度今週の月曜にかかってしまい、火、水、木と四日連続欠席中。現在食欲は無いものの、熱も微熱まで下がり順調に回復中。明日の卒業式だけは出席したい。高校で、かけがないのない時間を過ごすことが出来た。とても別れが惜しいし、今まで感じたことはなかったが、感慨深いものがある。それに。

この胸の中に、気持ちを伝えたい人がいる。

「名前、具合どう?病院行けそう?」

ノックをしてから入ってきた母は、念のためマスクをしている。わたしがそうするように言ったのだけど、本人は息苦しくて嫌いみたい。

「大丈夫だよ、病院、何時から?」
「今日は午前中だけだから、10時になったら行こうと思ってるんだけど…」

目線を部屋の掛時計にやる。10時か…一時間後。まだ身体はだるいけど、明日は行ってもいいですよ、とお医者さんに許可を貰わなくてはいけない。
むくりと身体を起こすと、「お水飲む?」と母がミネラルウォーターのキャップをゆるめてくれた。返事はせずにそれを受け取って、一口だけ口に含んだ。冷たくて、美味しかった。


もうすぐ春が来るというのに、まだ外は寒い。マスクに厚手のコート、マフラーをぐるぐると巻いて助手席に乗り込む。
いつもはお喋りな母が、病気の時ばかりは流石に大人しくしている。迷惑かけちゃってごめんなさい、と口には出さずに謝る。
思えば、母にはたくさんの心配をかけてきたと思う。わたしに友達がいないこともそうだが、こうして何かの病にかかった時、働いている母は仕事を休まなければならない。別に一人置いていってくれても構わないんだけど、これこそが母の優しさだ。わたしが寂しい思いをしないよう、安心出来るよう、いつだって傍で見守ってくれていた。

いつかお母さんにも感謝の気持ち、言わなくちゃなあ。と今年の母の日のことなんかを考えたりして。

あっという間に行きつけの病院について、月曜に診てもらった先生と再び挨拶を交わす。診察が終わり、先生がカルテにさらさらと何かを書きこむ。

「あの、わたし明日、卒業式なんです」
「へえ?そうなんだ、もうそんな歳か…少し前まで小学生だったのになあ」

懐かしそうに目を細めて微笑みかけてくれる。昔から変わらない、柔らかくて優しい先生。

「行けないですか?」
「…本当は今週いっぱい休んだ方がいいけど、社会人の人なんかは熱が下がったらみんな仕事に行っているからね。卒業式、出ておいで」
「!、は、はい」
「ただし、マスクは外しちゃだめだよ。まだ菌が身体に残ってるから。薬も今週いっぱいは飲むこと」
「…はい」

病院を出て、母が帰り際にコンビニでヨーグルトを買ってくれた。帰ったらそれ食べてもうひと眠りしよう。明日は今日よりもっと回復してるといいなあ。

「んっ?…名前、忍足くん来てる」
「え!?」

忍足くん、というワードに思わずぐったりとした姿勢を正す。家の前の花壇に腰かけている、あの金髪は間違いなく忍足くんだ。

「お母さん駐車するから、名前先降りていいよ。ヨーグルト冷蔵庫入れとくからね」
「うん、ありがとう」

シートベルトを外して車から降りる。バン、とドアを閉めると、忍足くんがこちらを見た。
車の中の母に気付き、軽く会釈をして、わたしの方に歩いてやってくる。わたしからも、忍足くんに近づいた。

「インフルなんやて?担任から聞いた」
「うん。予防接種打ったんだけどね」
「意味な!大丈夫なん?明日卒業式やけど…」
「さっき病院行ったら、明日は特別に出ていいって。熱ももう下がったし。マスクは絶対だけどね」
「そうなんや…、白石も住谷も心配しててん。本調子ではないみたいやなあ」
「少しね。でも今日寝たらきっと大丈夫。わざわざありがとう」

マスク越しに、少し籠った声でお礼を言うと、「あー、いや、うん」と煮え切らない返事をする忍足くん。
もしものことを考慮して、彼にインフルエンザがうつってしまってはわたしが明日行く意味も殆どなくなる。「それじゃあ、明日ね」と声をかけると、名前を呼ばれた。すぐに足を止めて忍足くんを見る。

「…?、何?」
「っあ、明日!絶対来るやんな!?」
「…うん、絶対行くよ」
「じゃあ、明日でええ!明日言う!」
「…?、わたしも、明日言うよ?」
「えっ?」
「だから休むなんてこと、ないから。大丈夫」
「?…お、おう!」
「じゃあ、明日」
「明日な!」

寒さで頬っぺたが赤くなった忍足くんは、まるで大きな子どもみたい。そんなところもいいなあ、と思うわたしは多分結構重症だ。住谷さんに言われて覚醒したみたいに、わたしは忍足くんのことが、相当好きみたい。

上手くいくとええなあ、と住谷さんは応援してくれた。白石くんは協力してくれると言ってくれた。今思えば彼はわたしに何度もチャンスをくれていたのだ。

上手くいこうが、いくまいが、この気持ちを伝えることが、わたしにとって人生の大きな第一歩となる。自信もなければ、勇気もない。だけどそれは忍足くんに会うまでの話。もちろん、今でも自信満々なわけはないが、伝えたいという意思は固かった。


部屋でヨーグルトを食べた後、再びベッドの中へ入り込む。

目を閉じていろんなことを、走馬灯のように振りかえりながら、そのまま眠りについた。