わたしの世界を変えたのは



あ、あの本読みたかったやつだ、と手を伸ばした時、忍足くんに名前を呼ばれてその手を止める。

「じゃあ俺はこれで」
「金ちゃんなら喜んで全部もらってくれるやろ」
「そうっすね」

紙袋を持って、スカした態度の彼は図書室を去って行った。なんでか自分を見てるみたいで不思議な気持ちだ。だけど忍足くんと仲が良いんだ、きっと根はいい人なんだろう。本を棚に戻してくれたのは彼だし。

「もういいの?」
「ん?ああ、あいつな、後輩やねん。テニス部の」
「あ、そうなんだ」
「生意気やろー。中学ん時からずっとあんなんでな。入ってきた時なんか今よりもっと仏頂面で。まあ可愛い後輩なんやけどな!」

今日初めて、わたしに笑顔を見せてくれた。この笑顔が見たかったんだ。わたしがこの気持ちを伝えたら、忍足くんは住谷さんと同じように、喜びに満ち溢れた笑顔を向けてくれるだろうか。

「あ、で、話って何?ここでええの?」
「あ、うん。えと、話っていうか、…えっと…」
「?」

あれ、なんだこれ。心臓がおかしい。おかしいくらいうるさい。言葉を喋るのも億劫で、足が震えてどうにもならない。体験したことのない緊張に、軽いパニックに陥ってしまった。どうしよう、忍足くんが見ている。わたしを、わたしだけを瞳に映している。
感謝の気持ちを伝えるだけなのに、だめだ、知恵熱でも出そうだよ…!

「あの、住谷さんからチョコ、もらった?」
「え、住谷!?…あー、うん。さっき…」

住谷さん、本当に告白したんだ。有言実行出来るって、すごいなあ。ってことは今、忍足くんには彼女がいる。そう考えただけで、どうしようもなく胸が苦しい。
応援しなくちゃいけない、そう思えば思う程自分が苦しくなっていく。何も出来ない、何も言えない自分が歯痒い。

「なんで?」
「え、なんでって…」
「いや、住谷は今関係ないやろ。それとも名字はそれが聞きたかっただけなんか?」
「…そうじゃ、ない」
「ほんなら今はあいつの話はええやん。俺は名字の話が聞きたいねん」

今の、住谷さんが聞いたら泣いちゃうよ。そんなことを思う反面、嬉しいと思うわたしがいた。
本当にわたしは、卑怯者だ。

「…わたしね、毎日のように思うんだ。忍足くんがあの日、わたしに話しかけてくれてなかったら、今頃もまだ一人なんだろうって」
「いや、そんなことはないと思うで」
「あるよ。そんなことあるの。…最初は変な人だなって思ってた。わたしなんか誰かに何を言われてても、結局自分には関係ないことだし、助けてくれる人なんか一人もいなかった。でも忍足くんは助けてくれた」
「そりゃ見てられへんかったし…」
「うん。それでもあの時あのタイミングで、言葉にしてくれたのは忍足くんだよ」
「なんや恥ずかしいやんか。こんな改まって」
「今日は、改まって、言わせてもらいたくて」
「うん?」

「わたしのこと、友達だって言ってくれてありがとう」

あの時本当に、涙で世界が滲む程嬉しかった。今までの人生なんだったんだろうって、こんなに世界は明るかったんだって、そう思った。

忍足くんの笑った顔を、ずっとそばで見ていたい。もっと話したい。知りたい。わたしはどんどん欲張りになっていく。
自分がこんなにも欲のある人間だったなんて知らなかった。忍足くんや白石くん、住谷さんと友達になれて、わたしは自分の知らなかったところをたくさん知った。
友達が増えると悩みも増える。それは確かにそうだけれど、何故か嬉しくも感じている。自分以外の誰かのことで悩めるなんて、本当に素敵なことだと思うから。

「な、なんや急に、そんなん別に、」
「忍足くんにとっては、なんでもないことだったとしても。わたしにとっては、すごいことなの。忘れられない、きっとどんなに年をとったって」

忍足くんは、特別なんだよ。

言うだけ言ったらなんだか胸のもやもやがすっと薄れていった気がする。完全になくなったわけではないけど、感謝の気持ちは伝わってる、と思いたい。

「…じゃあ、わたしはこれで」
「な、なあ!」
「…?」
「名字は、俺になんか、わ、渡すもんとか、ないんか…?」
「…あったけどもうない」
「えっ」
「他の人に、あげたから」
「なっ、なんで!?」
「え、なんでって…住谷さんからもらったんでしょ?」
「せやからなんでさっきから住谷!?あいつ関係ないやん!」
「関係なくないよ、だって付き合ってるんだよね?」
「はあ!?」

感情が高ぶっていつもより声が大きくなっている彼は、眉間に皺を寄せてわけがわからないといった顔をしてみせる。頭の中には疑問符が浮かんできて、わたしもわけがわからなくなってきた。

「…こ、告白されたんじゃ、」
「されたけど、断ったわ」
「ど、どうして」
「どうしてって、そんなん好きやないからに決まってるやろ」
「!」

住谷さん、ずっと忍足くんのことが好きだって言ってたのに、長い間想ってたのに、実らないなんてことがあるのか。
だけど心のどこかではほっとしている自分がいて、本当に嫌になる。友達の不幸を喜ぶなんて、わたしはどうかしている。

「あーあ、まあないならもらえんしな。しゃーない!」
「あげるつもりだったんだけどね、ごめん」
「なら来年!来年でええわ!」
「来年…って、来年もあるの?」
「は?お前アホやなー、バイレンタインは毎年あるやんか」
「いやそうだけど…」
「?」
「…わかった、来年は絶対あげる」
「ん!約束やで!俺今から楽しみやわー!あっ、せや、俺3月に誕生日もあんねん!」
「あ、そうなんだ」
「おん!やっと18やでー。白石なんかとっくに免許とっとるのにな?俺だけこれからやで。4月と3月じゃえらい違いやほんま。名字は免許もっとん?」
「持ってないよ。今はなくても困らないし」
「まあそれはそうなんやけど、早い方がええやん?」
「うん、まあね」

相変わらずよくもこんなにぽんぽん話題が出てくるものだ。忍足くんと話していると、飽きないどころか、気まずい雰囲気になったことは一度もないし、少しの沈黙さえ心地よく感じる。

来年でいい、と言ってくれて、素直に嬉しかった。来年も一緒にいることが出来るのか。そうなれることを望んでいいんだと思うと、全身がぽかぽか暖かくなった。

「もう帰るやろ?」
「うん」
「ほんなら一緒に帰ろうや」
「いいの?」
「え、ダメなん?」
「ダメじゃない。一緒に帰りたい」
「お、おう…!」

帰り際に下駄箱で、大きな紙袋を4つも手に持った白石くんに遭遇した。散々忍足くんに嫌味を言われた白石くんから、「謙也に渡したん?」と耳打ちされたので、首を横に振る。

「来年でいいって」
「マジか。来年まで待つつもりなんやろか」
「?」
「名字さん、土曜暇やろ?俺行きたいとこあるんやけど一緒に行かへん?」
「え、いいの?」
「ええも何も、俺が誘ってんねんから」
「…じゃあ、行く」
「よっしゃ。謙也には内緒な?」
「?、うん、わかった」
「ん、なら俺はこれで」

また明日、と手を振る白石くんは冬でも爽やかで、チェックのマフラーがよく似合う。忍足くんには悪いけど、土曜日が楽しみだ。

「何話してたん?白石と」
「ひみつ」
「ええ!?なんでや!教えろや!」
「ひみつにしろって白石くんが」
「なんやとあいつ!うっわめっちゃ気になる死にそう!教えろって!」
「だめ。ほら、帰ろうよ忍足くん」
「教えてください!」
「先行くからね」
「あっ、ちょお名字!」

なんだか友達になる前のことを思い出した。そういえばあの時もこうやってわたしについて来たっけ。懐かしい。そして彼はあの頃から、いやきっとずっと、変わらないんだろう。ふふ、と思いだし笑いをすると、「何笑てんねん!」と怒られた。