手塚くん達と出会ってから、わたしの生活は確かに変わっていった。やたら絡まれやすい体質なのは今でも変わってない。
だけど、前までは絡まれたらお金を(ちょっとではあるけど)巻き上げられたり、少しでも抵抗すれば躊躇されることなく殴られていた。わたしの身体には生傷が幾つもあるけれど、今となっては傷が増えることはなくった。

みんながわたしを守ってくれているからだ。

何かお礼がしたいと思った。何でもいいから、みんなにありがとうを伝えたくて、そしてこれからもよろしくって言いたい。

と言うわけで貧乏人なりに考えて、クッキーを焼いてきた。ショボいな、って笑われるかもしれないけど、肝心なのはそう!ハートだからね!

クッキーが入った愛用のトートバッグ(親友ちゃんがくれた雑誌の付録)を陽気にぶんぶんと振り回して登校していた。いつもならここら辺で不二くんに会えるはずなんだけど、今日は時間が合わなかったのか、会えなかった。寝坊かしら?いやでも不二くんって朝も夜も強そうな感じだからなあ。

そんなことを一人で考えながら、ずっと陽気に回していたトートバッグを突然誰かに奪われた。

「な、っ!?」

慌てて取り返す間もなく、これまた突然誰かがわたしの後ろにまわって、一瞬で意識がぷつりと切れた。

最後に聞こえたのは、不気味な笑い声だった。



「もしもし、裕太?どうしたの?」
『あ、兄貴!良かった、無事だったんだな』
「無事も何も…、何かあったの?」
『実は観月さんが…』
「観月…?」
『お、おおお落ち着けって、まだ何も言ってないだろ!』
「彼が絡む話で良い事なんてないから。で、観月がどうしたの?」
『…最近兄貴がやたら気に入ってる女の子がいるっていうのを、観月さんが誰かから聞いたらしくて』
「(名前の事か…)ああ、いるね。気に入ってる子」
『本当か!?み、観月さんはその事を暫く調べてたらしいんどけど…』
「何の為に」
『…その子を餌に、兄貴をルドルフに転校させる為に』
「へえ、それで?」
『それでって…、助けに行ってやらないのかよ!?好きな女だろ!?』
「別に、僕だけの女の子じゃあないよ。彼女だって僕達のことは友達だと思ってるさ」
『…っ、み、見損なったぜバカ兄貴!惚れた女も諦めちまって、挙げ句見捨てるなんて…!』
「……」
『俺は!そんな兄貴に憧れて不良やってんじゃねぇ!そんな…女一人見捨てるような腑抜けに、俺は絶対ならねぇからな!!』
「……」
『っ、わざわざ教えて損したぜ!じゃーな!』

「…腑抜け、か」



目が覚めたら、毎日見る学校机がそこにあった。わたしは椅子に座っていて、あとは書くものと消しゴム、ノートさえあれば完璧。…身体が自由に動かせたら、の話だけどね。

椅子に縛りつけられたのは人生で初めてだった。ただ手足を縛られるだけ、ってのは何度かあるけど…。(というのもまずおかしいけど)

もちろんいつもいるクラスメイトかここにいるはずもなく、わたし以外にはニヤニヤした変態の女男みたいな奴と、アヒルみたいな顔した奴と、その他パッとしない奴等が数人。
なんとなく経験からすると、そんなにまずい状況じゃなさそうだ。この人達はきっとわたしをダシにして、誰かをここに呼ぶつもりなんだ。その人を誘き寄せることこそが本命。

「観月!こいつ目が覚めただーね」
「おや?なかなか冷静みたいですね。この状況、普通の女性なら怯えて震えて助けを乞うはずなのに」
「慣れてるんじゃねーか?てか観月、さすがにこの縛り方はなんつーか、やりすぎじゃね?つかどこで覚えたんだよこんなAVみてーな…」
「なっ、誰が変態ですか!!」
「誰も言ってねーだろ」
「こっ、この縛り方だと縄脱けもされにくいと柳沢君が教えてくれたんです!」
「おっ、俺!?俺は何も言ってないだーね!」

「つーか不二だったらこんな拉致みてぇな事しなくても普通に呼んだら来るだろ」
「そんなことはボクも分かっていますよ。裕太君だっていい餌になりますしねぇ」

裕太君、という名前が出た瞬間、わたしの右斜め向かいにいた短髪の彼がピクりと反応した。彼が裕太くんか。
でもなんで、裕太くんを餌にすると、不二くんが釣れるんだろう?不二くんって実はホモ?男が好きで、その好きな人が裕太くんなら納得出来るけど。

何も喋らずに、しばらくここにいる人達のことを観察していた。周りをよく見て、どうするかじっくりちゃんと考えよう。きっとわたしを傷つけるつもりはないんだろうから、時間はたくさんある。

不二くんがここへ来なくたって、わたし一人でなんとかしてみせる。それでちゃんとクッキーを渡して、感謝の気持ちを…あれ、そう言えばクッキーは!?

「あっ、あの、すいません!」
「ん?なんですか、大人しくしていないと、」
「わたしが持ってたトートバッグ知りませんか!?中にクッキーが入ってるんですけど…!」
「…ああ、あの汚いバッグならここにありますよ」
「!、よ、よかった…」
「ただ、中身は先程ボク達が食べました。味は微妙でしたが、良い紅茶と飲めばそこそこの味に感じる事が出来ましたよ」

んふ、と不気味に笑って、女男はバッグを逆さにしてみせた。

胸に大きな棘が突き刺さった気分だった。自分で少しずつ貯めた貯金から材料を買い、みんなの喜ぶ顔を思い浮かべて作った。そりゃあキングやこの女男のようにいかにも貴族っぽい人のお口には合わない味かもしれないけど、それでもみんなへの想いはたくさん詰まっているはずだ。

「…ひ、ひどい、食べていいなんて誰も言ってない…!」
「あんなクッキーごときで…、いちいち君の許可が必要なんですか?小さいですねぇ」
「人のもの勝手に食べたくせに、どんな神経してんの!?」
「では謝りましょう。すみませんでした。まあ今更クッキーは帰ってきませんけどね」
「っんな、なっ、…!!」

何こいつうぅぅ!!ムカつくムカつくムカつく!!何が謝りましょうだ!どんだけ上からだよ!さっきから髪をくりくりくりくり気持ち悪いんだよ!睫毛ばしばしうぜーよ!隣のアヒルも存在が腹立ってきた!

「…兄貴?なんだよ今更…、今?ああ、いるけど……し、してねぇ、何もしてねぇよっ。…ああ、…え、今から?え、すぐってどういう…!」

裕太くん、という短髪の子が電話を完全に切り終わる前に、この部屋の扉がわたしのすぐ傍までぶっ飛んできた。こ、ここから入り口までは、結構な距離があるはずなんだけどな…!

逆光でよく顔が見えない。だけどきっと、あれは。

「懲りないねぇ観月も。いい加減にしないと、そろそろ僕も本気で怒るよ」

「不二くん!」
「兄貴!」

…ん?兄貴?さっきも通話中聞こえたけど、やっぱり気のせいなんかじゃなかった。じゃあこの彼は、不二くんの弟!?(に、似てな!)

「裕太はまだいいよ、男だから。でも…」
「ま、待て、不二周助!ボクは彼女に何もしていない!」
「何もしてないって、君はどうかしてるんじゃないか?じゃあどうして彼女は縛られてるんだい」
「し、縛っただけだ!逃げないように!他には何もしてない!」
「縛っただけ、ね。…痕が残ったらどうするんだ。身体にも、心にも!」

「不二くん…」
「兄貴…」

さっきからいちいちシンクロしてくる弟裕太くんはまあいいとして、こちらへゆっくりと近づいてくる。怖いなんてあるわけないのに、あんなに怒った顔の不二くんは見たことがないから、本当に、少しだけ、怖い。

いつもにこにこしている、優しい優しい不二くんが、蒼い瞳で女男を睨み付けている。眉間には深い皺が刻まれ、扉の向こうから入ってくる風が、彼のブラウンの髪を撫で、靡く。

これが、不二くんの本来の姿なんだろうか。

「ふ、不二くん!わたしは大丈夫!何もされてないから!」
「名前、」
「大丈夫だから、け、喧嘩しないでほしい!」

正直に自分の想いを打ち明けた。怖いけど、不二くんはそれ以上に、優しい人だから。

眉間に寄っていた皺ご、す、っと薄れた。それから女男のことは無視して、わたしのところへ来てくれた。

「ごめん名前、遅くなったね」
「わたしこそごめん、こんなことに巻き込んじゃって…」
「望んでこうなったわけじゃないだろ。待って、今縄を解くから」
「うん、ありがとう」
「それにしても、すごい縛られ方してるね。流石悪趣味」
「あは、だよねぇ」
「うん、名前がやるとどうしてかそんなにエロくないけどね」
「どうしてだろうね」
「ハムスターに似てるからだよ」
「…不二くん、本当にわたしを助けに来てくれたの?」
「ふふ、もちろんだよ、ほら解けた」

しゅる、といとも簡単に縄を解いて、不二くんはわたしに「立てる?」と手を差し伸べてくれた。遠慮なく手をとって、自分の足で立ち上がる。

「さて、どうしようか」
「一人で来たの?」
「僕じゃ不満だったかな」
「や!そう言うわけじゃないよ!」
「たまには僕にも独り占めさせてよ」
「…え!?」
「ふふっ、相変わらずからかいのある子だね」
「っ、もう!」
「ふふふ、可愛いなあ」

さっき人のことハムスターって言っただろ!とは言わずに、とりあえずこの状況をなんとかしなくちゃ。

不二くんはもう戦う気はないみたいだし、わたしもはやくこんな所から出たい。

「不二くん、帰ろう」
「うん、そうだね。多分大石辺りがめちゃくちゃ心配してるよ」
「え、どうして?」
「ここに来る前に偶然会ったんだ。なんでも妊婦さんが道で苦しんでたみたいで」
「そっちの方が偶然じゃない!」

「僕の様子がおかしい事くらい、皆気付けるくらいには、一緒にいたつもりだからね」

そう言って不二くんはいつもと同じ笑顔で笑ってくれた。

「観月、次は本当にないと思っておいて。いい加減君を殴りたくて堪らないんだから」
「ふ、不二周助!ボクの学校に転校する気は…!」
「ない。今までは裕太がいたから少しは考えものだったけど、」

この子がいる限り、僕は青学にいるよ、とどさくさに紛れてわたしを抱き寄せた。いっ、いきなり予告もなしにそういうことされたらドキドキするから本当やめてほしいんどけどな!

「ぼ、ボクは諦めないからな!不二周助!」
「帰りに何処か寄って帰ろうか、名前」
「うん、いいよー」
「あ、裕太も来る?」
「えっ、俺!?」
「あ、いいじゃん来なよー。二人って兄弟なんでしょ?」
「俺は別に、…ま、まあ、用事ないからいいけどよ」
「授業あるくせに!」
「うるせぇこのヒヨコ女!」
「裕太、ヒヨコじゃなくてハムスターだよ」
「人間だから!」


「ぼっ、ボクを無視するなああぁぁ!!」
「まあまあ観月、落ち着けよ…、ん?」

裕太くんと三人でカフェに行くことが決定して、早速レッツゴー!という所で、色黒の長髪さんがわたし達を呼び止めた。

「…?なんですか?」
「赤澤、僕はもうやる気はないよ」
「俺もねーよ。女!忘れ物だ!」

ひゅっと投げられたそれを、慌てるふためくわたしを見た不二くんが冷静にキャッチしてくれた。

「はい、名前。…クッキー?」
「あ…」

「美味かったからみんな食っちまったんだ!そんだけしか残ってねぇ!悪かったな!不二も!」
「赤澤、」
「色黒長髪さん…」

みんなの分はなくなっちゃったけど、このひとつがあれば十分だった。みんないっぺんにまとめてお礼をしようとしたわたしがいけなかったんだ。

「不二くん、これ、受け取ってくれる?」
「え、僕に?」
「不二くんのために作ったんだ。いつも…、今日もありがとう」

正しくはみんなのために作ったものだけど、これは不二くんのためのクッキーだ。
いつもありがとう、これからもどうか、よろしく。

「兄貴、顔赤いぜ?」
「裕太、うるさい」
「へーへー」

「ふ、不二くん?」
「っ、いや、うん、こちらこそありがとう」

照れたように笑う不二くんは、初めて見た気がした。