07
急いで幸村くんの教室へ走って勢い良くドアを開けた。授業中にまさか全身びしょ濡れの女が現れるなんて思ってもいないだろう先生含め生徒達は一気にざわざわと騒ぎ始めた。
「ゆ、幸村くんいますか!」
…返事はない。おかしいな。仁王くんが確か教室って…。
「ゆ、幸村なら今日は休みだけど」
「ええっ!そ、それ本当!?」
「ほ、本当、です」
に、仁王くんめ!嘘ついたな!お陰でこんな注目浴びて、女子からは既に睨まれてるんだけど!
と、とにかく、「お、お邪魔しました!」とだけ言い残して足早に教室を出た。先生が何か言ってるけど聞こえないフリだ、聞こえないフリ。
自分の荷物を取りに帰ろうかと思ったけど、先生に怒られるのは嫌だし、また目立つのなんてもう懲り懲りだ。わたしはそのまま走って下駄箱へ向かった。
幸村くんの家は覚えてる。周りに目立つ建物が多かったし、何よりあの大きな家が一番の目印だ。わたしは傘も刺さずに幸村くんの家へ走る。
不意に仁王くんの言葉が頭を過ぎった。わたし達の関係が終わったら、幸村くんにはもう会えないと思ってた。だって今まで一度だって接点のない、太陽と月みたいな存在だったから。でもそうじゃない。幸村くんには会いに行こうと思えば、いつだって会える。そんな距離に居ることが既に奇跡みたいなものなのに。どんな顔して会えばいいんだろう?とか、もし偶然すれ違った時はどうしたらいいんだろうとか、幸村くんと結ばれない未来ばかりを被害妄想して、落ち込んで、泣いて。なんて最悪な悲劇のヒロインなんだろう。わたしは奴隷だった自分が可哀相だなんて思ってた。わたしばっかり傷ついてると思ってた。でもそうじゃない。わたしだって幸村くんを傷つけた。自覚のない、それは残酷な傷つけ方をした。
わたしはそれを謝りたい。謝って、許してもらって、そしてこの気持ちを、幸村くんが好きだって、伝えたい。
幸村くんの家のインターホンを押して、誰かが出るまでの間、必死に息を整える。久しぶりにこんなに走った気がする。長距離が得意なことが役に立ってよかった、と思った。
もう一度インターホンを押すと、今度はすぐに出た。
『はい』
顔は見えないけど、この声は。
「ゆ、幸村くん!あの、名字です!」
『名前?』
「え、えと、ぐ、具合、悪いって聞いて、あの、お、お見舞いっていうか、あの」
言いたいことは何ひとつ言えずに、言うつもりじゃなかった言葉が次々と口を突いて出る。
『ああ、そうなんだ。でもごめん、大丈夫だから。熱とかないし。今朝少し腹が痛かっただけだから』
帰ってもいいよ、と言われてわたしは挫折しそうになる。いつもわたしに拒否権はないとか、好き勝手言ってたくせに、幸村くんはこんな時、わたしを拒否してばかりだ。
プツン、とインターホンの通信が切れたのがわかった。だけどわたしはもう一度仁王くんの言葉を思い出して、指先のボタンを押した。
『…何』
「出てきて欲しい、とは言わない。顔を見て言いたかったけど、このまま聞いて」
『……』
「笑わないで、聞いて」
『…手短にね』
インターホンの前にずっといるの、嫌だから。と冷たい一言にも、わたしは負けない。謝るんだ。許してもらって、伝えるの。
「一昨日は、ごめんなさい!」
幸村家の前で、わたしは深々と頭を下げる。幸村くんが目の前にいるわけじゃないけれど、わたしなりの誠心誠意を見せたいから。頭をゆっくりとあげて、何も言わない幸村くんを確認した後、続ける。
「自分だけが、傷ついて可哀相だって、思ってた。奴隷の方が辛くて悲しい思いをしてるんだって、思ってた。だから、幸村くんがどうしてあんなに怒ったのか、わからなかった」
「帰り道、たくさん、色んなことに気付いたよ。気付かされた。わたしは本当に馬鹿だってことも、幸村くんを傷つけてしまったことも、気付いた」
「たくさん傷つけてしまってごめんなさい。わたしは馬鹿だから、無神経なことを言ってしまったかもしれないし、幸村くんのこと、何もわかってないのに、軽率なこと、言ったから」
「そのことを謝りたかった。そして、許してほしい」
震える手にぎゅっと力を込めて、わたしは幸村くんに許しを乞う。長い沈黙が終わって、幸村くんはわたしの名前を呼んだ。
『…やっぱり、馬鹿だね』
「え、」
『いいよ、許す。それから、俺もごめん』
幸村くんも、たくさんたくさん、色んなことを考えてくれたんだろうか。わたしのために、わざわざ時間をさいて、考えてくれて、悪いと思ってくれたんだ。
だって今幸村くんの声、すごく、優しい。
「へ、へへ、…うん、いいよ」
『何笑ってるの』
「ご、ごめん」
それから本題へ入るべく、わたしは切り替えてインターホンの前で背筋をぴっと伸ばした。「幸村くん」と名前を呼ぶと「まだ何かあるの?」とさっきと変わらない柔らかい声で聞かれた。うん、あるよ。とっておきなのがもうひとつ。
「好き」
雨の音がザアザアと鳴り響く。幸村くんに、聞こえただろうか。雨が邪魔しなかっただろうか。返事を待てど彼の声は聞こえて来ない。不安に押しつぶされそうになるけど、挫けない。だってもう会えないわけじゃないし、同じ学校、同じ地域、同じ日本にいるんだもん。仁王くんの受け売りは大分わたしを支えてくれているらしい。まだまだ、こんなんじゃ伝えたりないと、わたしは口を開く。
「わ、わたし達のおかしな関係は終わったけど、ここからまた、わたしは、幸村くんと新しい関係をつくりたいの!奴隷として、じゃなくて、わたし、本当は、幸村くんの彼女にっ」
そこまで言うと、玄関から幸村くんが出てきたのが分かった。私服の彼にドキドキする暇もなく、幸村くんは駆け寄ってきてくれて、雨でびしょ濡れになったわたしをこれでもかという程強く抱きしめた。
「…馬鹿」
「…う、うん、ごめ」
「ほんと、馬鹿だよ、お前」
ぎゅううっと力を強められるばかりで、「幸村く、くるし」と訴えても聞いちゃくれなかった。
「幸村くんは…?」
「何」
「…わ、わたしのこと、好き?」
「言わなきゃわかんないわけ?」
「…言ってくれたら、嬉しいな」
幸村くんは暫く沈黙を守り続けていたけど、観念したのか、本当に小さな、だけど甘くて優しい声で。
「好きだよ。めちゃくちゃ」
そう言ってわたしの耳にキスをした。
ぞわぞわとした変な感覚に襲われて、背中が痒くなったけど、我慢だ。
長く、遠く感じた幸村くんまでの距離は、思い返せば本当に大したことのない距離だったと思う。出会って一週間でこんなに好きになってしまったのだから、一年や十年経ってしまったらもうどれ程好きになっているんだろう。想像も出来ない世界に少しの不安と幸せを膨らませて、濡れた頭を幸村くんの身体に埋めた。
「幸村くん」
「…そろそろ中に入りたいんだけど?」
「うん、これだけ聞いて?」
「何?」
「わたしきっと、一生奴隷命令でも、OKしてたと思うんだ」
「すごいドM宣言だね」
「そ、そうかな。…だけど今は、いつだって傍に居ていいこの関係が絶対いいなって思うよ」
「…俺も言われっぱなしじゃだめだな」
「え?」
「おいで」
幸村くんはわたしの手を引いて玄関に招き入れた。そのまま幸村くんはスリッパに足も通さずに部屋に消えて行ってしまった。クエスチョンマークを頭の上に散らしていると幸村くんは変なポーズのまま現れた。
「どうしたの?変なポーズで」
幸村くんの顔を見つめれば、今までのどの時よりも顔を赤くして、思わず「熱!?」と聞いてしまう程だった。
「さっき、笑わないで聞いたから、名前も、笑わないで受け取って」
「え、な、何を、」
ふわ、と花の香りがした。目の前には、一昨日幸村くんが花屋さんで買った、綺麗な花。
「これ、どうして」
「…あげる」
「…な、なんで、だってこれ、あの時の」
ガーデニングが趣味だと言ったから、わたしはてっきり、家に帰って土に埋めて育てるんだとばかり、思ってたのに。
「自分で育てるなら鉢に植えてあるものを買うよ。これは、…名前のために買ったんだ」
「そ、そうだったんだ…」
花束なんてもちろん生まれて初めて渡された。正直涙が出そうな程嬉しい。良いコメントがみつからない。嬉しい、それさえも言えないまま、幸村くんが先に口を開いた。
「本当はあの日、渡すつもりだったんだけど。まだ全然枯れてないから」
「…あ、ありが、とう」
「泣くほど?…確かに綺麗だけどね。ああ、タオル持って来るよ。お風呂も沸かすから」
だから泣くな、と唇にキスをされて、それはまるで魔法みたいにわたしの涙はぴたりと止んだ。
恐ろしくて、最低で、なんて暴君なんだ!って思うこともあったけど、幸村くんは、本当に暖かくて優しい人。わたし達の始まりは少し奇妙ではあるけれど、ここからまた、新しい関係を築きたい。
「幸村くん、この花、なんていうの?」
「シザンサス」
「しざん…?絶対覚えられなさそうな名前だな」
「覚えなくていいよ」
【シザンサス】
花言葉:いつまでも一緒に