気が狂いそうだ。
死体と怨霊にまみれたこの校舎に閉じ込められたら誰だって狂うはずだ。
――刻命裕也もそれで狂った。
あの時はそう思っていたのに、彼は違った。
彼は“初めから”狂っていたのだ。
「は、は、…ッ」
古臭い床を蹴って走る度にギシギシと軋む。
最早それすらも煩わしいと感じなくなってきたのは感覚がおかしくなったからなのだろうか。
度々後ろを振り向き、彼が追ってきていないかを確認する。
遠くの方で足音が聞こえてくる。
確実に近付いてくるのがわかった。
捕まりたくない、一心不乱に、ただ前だけを見据えて走った。
ぐじゃりと、足元に嫌な違和感を感じる。
また、誰かの内臓でも踏んでしまったのかと、慌てて靴底を覗くが何もない。
次の瞬間、目眩が起き、地面へとへたりこんでしまった。
「や、だ…なに?」
辺りを見回すと、一面緑色の苔の様なものが床に敷き詰められていた。
よくよく観察すると、それらが顔のようにも見える。
「ひ、い…ッ」
ねとり、とまとわりつくそれから逃げるように這うが、力が出ない。
「あぅ…、ああ…」
半ば喘ぎながら緑色のそれのないところまで這い戻り、肩で深呼吸を繰り返す。
漸く落ち着いたところでふと顔を正面に向けると、悠莉の目の前に見覚えのある足が見えた。
これ以上顔を上げてはならない。
早く逃げなければ。
頭では分かっていても、身体が思うように動かないのだ。
「どうして逃げるんだ?悠莉」
目の前に立っていた男がしゃがみ込み、悠莉と目線を合わせる。
いつもの穏やかな笑み。
…いや、それはどうだろうか。
こんな状況で穏やかな表情を向けられても、到底信用など出来る筈がない。
彼の言葉に反応するべきか否か考えていると、裕也が悠莉の腕を引き、優しく抱き締めてきた。
「あ、う…?」
「悪かった、怖い思いをさせてしまったみたいだ」
くしゃくしゃと頭を撫でてくる。
その手付きは異様に優しい。
信用しても大丈夫なのか?
「あな、た…人を…ッ」
怯えた声音で先程見た事実を絞り出すと、裕也が困ったように笑う。
「ああしないと…逆に俺が殺されていたんだ」
――まさか。
そんなことを信じて良いのだろうか。
だが、未だに彼は私を襲おうとはしない。
危害さえ加えなければ襲うことはないと言うことなのだろうか?
「一人で居ては駄目だ。…幽霊に殺される。だから一緒に行こう」
此処に来てから、どうも誰かを信じることが出来なくなったようだ。
もし、善意で言っているとすれば、断るのは良くないだろう。
それに、一人で居るのは危険だと言うのも尤もだ。
現に皆がバラバラになってから死人が増えたような気がする。
悠莉は差し出された裕也の手を取り、静かに頷いた。
「行こうか」
「でも、何処に行けば…」
「行き先は決まっているよ」
次に振り向いた時の彼の表情は酷く冷酷な表情で。
いつのまにか忍ばせていたナイフを取り出していた。
「天国まで案内してあげるよ。…勿論、行くのは悠莉一人だけどなぁ」
「この…っ」
「どうせ逃げられないんだよ、呪われて苦しみながら死ぬより、俺が一瞬で終わらせた方が苦しまなくて良いだろう?」
べろりとナイフの切っ先を舐める仕草に恐怖を煽らされる。
悠莉はガタガタと身体を振るわせながらジリジリと後退していたが、裕也が一歩歩み寄ったのをきっかけに、弾けるように走り出した。
――一瞬でも信じるんじゃなかった。
心を許してしまった自分の愚かさに毒づく。
後方から裕也が追い掛けてくる。
格段に、相手の方が走るのは速い。
捕まるのも時間の問題だと、悠莉自身も諦めていた。
もう、走る気力も出ない。
諦めばかりが先に立ち、悠莉は徐々に速度を落とし、終いには立ち止まり、その場に泣き崩れ落ちてしまった。
ヒタヒタと足音を背後に感じる。
「悠莉」
呼ばれたが、背後を振り向く気力も、勇気もない。
それに、彼の表情も見たくはなかった。
背後から目許を布で覆われ、口許を手で押さえられる。
背後から身体を抱えられるかのように身体を引き寄せられる。
頭を二、三度撫でられる。
此れから殺されるというのに、そんなことをされては安心してしまうではないか。
「おやすみ、悠莉」
その言葉と同時に酷い痛みが身体中を支配する。
ザクザクと言う音と、彼の荒い息遣いと、自分のくぐもった叫び声が耳に入る。
力が入らない。
意識を保つのも考えるのも面倒になり、そのまま体重を裕也の方へと掛ける。
耳障りな音の合間に裕也の声が聞こえた。
だが、働かない脳はその言葉を認識してはくれず、結局何を言っていたのかわからないまま、自分は意識を飛ばし。
――息絶えた。
ぐったりとした悠莉の身体を、裕也は愛でるように撫でる。
「好きだ、なんて言っても信じないだろうな」
自嘲気味に言葉を絞り出す。
「どちらにせよ、もう届かないだろうしな…」
好きだからこそ、自分の手で殺してやりたかった。
非日常的なこの世界に飛ばされたからこそ、達成させたかった欲望。
漸く欲求は満たされた。
だが、頬に流れ落ちるこれはなんだろうか。
「は、ハハハハッ…」
からからに渇いた口からは笑いしか出てこない。
本当は泣きたいのに。
叫びたいのに。
それが出来ない、狂ってしまった自分を殺してしまいたかった。
狂った輪廻を止める事など不可能だ。
「さ、て…」
裕也はふらりと立ち上がると、次の獲物を探すように辺りを見回す。
「ククク…次は、誰、だ…?」
更なる犠牲者を求め、今も別館を徘徊し続ける。
この輪廻はいつ止まるのか。
それは近い未来に裕也自身が身を持って知ることとなる。
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