* 死ネタ

 
 
 
 
「あ…、」
 
夕日に照らされた金色の稲穂が揺れる田の中に、一人ぽつんと佇んでいる人影を見つけ、娘は思わず歩みを止めた。
 
大戦時に北軍の工兵が纏っていた軍服を終戦後の今も着続ける人物といえば、ここカンナ村には一人しかいない。頭巾の下から覗く橙色からしても、それは間違いようが無かった。その人物は大層な米好きとしても有名であったので、収穫を間近に控えた稲田を前に心踊らせているのだろう。まるで稲穂を見守る案山子のようだと思いながら、娘は暫しの間、その背を見詰める。
 
娘はその男とまともに言葉の一つも交わした事が無かった。村を野伏せりから護る為にやって来た、七人のサムライの一人。先の噂と合わせて、娘が男について知っている事といえば、後はその名前くらいなものである。対して男の方はといえば、娘の名はおろか、顔すらも覚えてはいない。村娘の一人であることは服装などからすぐに解ろうが、声を掛けてみたところで怪訝な顔の一つでも向けられるのは間違いないだろう。
 
それでも娘はその場を去ろうとはせず、程無くすると男の佇む場所から最も近い畦道(あぜみち)へと緩やかに歩を進める。そうして徐々に男の横顔が見えてきたところで再び足を止め、控え目な声音をもってその者の名を口にした。
 
「ヘイハチ様」
 
然れどその男、ヘイハチは表情一つ変える事無く、ただただ遠くを見詰めるようにして立ち尽くすのみである。娘の呼び声が届かなかったのか、それとも届いていながら反応を示さなかったのか。理由は定かでないが、娘が再び、先程よりも幾分大きな声量にて呼び掛けたところで、件の人物は漸く動きを見せた。
 
娘の方へと顔を向けたヘイハチは、まず自分が呼ばれている事に確信が持てぬかのように小首を傾げ、その後周囲を見回して他の者が居ないかを確認し、尚も娘が真っ直ぐに自分の方を見詰めている事に気付いたところで僅かながらも驚いたように片目を見開いた。それでもやはり信じられないとばかりに、私ですか?と無言で問い掛けるように己を指差すヘイハチを見て、娘は小さく頷く。そこで漸く確信が得られたらしいヘイハチは、今度こそ明らかに驚愕を露にした。
 
「これは驚きました」
 
そう言って笑いながら、ヘイハチは稲穂の間を滑るようにして娘の元へとやって来ると、畦へと上がる一歩手前で立ち止まり、娘を見上げた。
 
「こんばんは、娘さん。私に何か御用ですか?」
「こんばんは、ヘイハチ様。用という程では無いのですが、そんなところで何をなさっていたのかと思いまして」
「そうですねえ、私も何という訳では無いのですが、この見事な稲田を見ていました。今年も豊作のようですね」
「ええ、お陰様で」
 
何気無い言葉を交わしながら、二人は互いに微笑み合う。それは一見如何という事も無い普通の光景であったが、娘とヘイハチには、ある一点に於いてどうしようもなく覆し難い差があった。
 
「味の方もさぞや良いことでしょうねえ」
「ヘイハチ様は本当にお米が好きでいらっしゃるのですね」
「いやはや、生前も剣術より食う方が専門でしたので」
「収穫を終えたら、またすぐにでも御供えにあがりますよ」
「恐縮です」
 
そこまでの会話を交わしたところで、ヘイハチは漸く田より出でる。然れどその足がこの現世で娘と同じ畦道へと降り立つことは、最早あり得はしないのだ。
 
「よもやこの様な姿になってからも、こうして人と語り合えるとは思いませんでした。何故もっと早くに声を掛けてくださらなかったのですか?」
「人前でこのような話が出来るとお思いですか?」
「成程、確かに」
 
畦道に佇む二人、然れど地に延びる影は一つのみ。夕暮れの光を透かしたヘイハチの髪が美しい輝きを放つ様を目にし、娘は僅かにその目を細める。
 
七人のサムライの活躍により、野伏せりも、野伏せりを操り、陰から農民達を支配していた都をも打ち倒され、村には平和と安寧の日々が訪れた。その代償として尊い命を散らした四人のサムライの亡骸は、丁重に弔われ、村の崖に祭られている。
 
「怖くはないのですか?」
「幼き頃はそのように感じたことも御座いましたが、今はもう。それに、ヘイハチ様は命を懸けて村をお救いくださった方、どうして恐ろしいなどと思えましょう」
 
さも当然とばかりに返される言葉に、まるでこちらがおかしな事を言っているようだと、ヘイハチは思わず苦笑を漏らす。
 
「宜しければお名前を教えて頂けませんか?」
「名前、と申します」
「名前殿。もしや私以外の者達も、貴女には見えておられるので?」
「ええ、このように声をお掛けしたことは御座いませんでしたが」
 
最初に野伏せりの凶弾に倒れたゴロベエは、その後もリキチを中心として皆の傍らについていたという。そして名前以外にも一人だけ、その存在を間近に感じた者がいた。カツシロウである。彼は村の窮地をゴロベエによって伝えられたのだ。無論、それを知るのは当事者である彼等のみであるが。サナエとリキチが少しずつだが再び心を通わせ始めた頃を境に、名前はゴロベエの姿を目にする事は無くなっており、それはヘイハチも知るところであった。
 
キュウゾウはカンベエが村に残っている間は頻繁に姿を現していたが、今は時折墓前に佇んでいる事があるだけだという。カンベエと交わした約束が果たされる日を、其処で待ち続けているのだろう。キクチヨはといえば、未だにコマチの傍を中々離れられずにいるらしい。最初こそ彼の死を受け入れられずにいたコマチを気遣う為であったようだが、今は彼女に悪い虫が寄り付かぬかと戦々恐々とする日々である。
 
そうした中でただ一人、とんと行方知れずとなっていたのがヘイハチだった。
 
「私、ヘイハチ様は疾うに成仏なされたものと思っておりましたので、今日お姿をお見掛けして、とても驚きました」
「いやいや、お恥ずかしい事に、未だにこうして当てもなく彷徨っている次第で」
「何か、お心残りでも?」
「強いていうならばまた腹一杯に美味い米を食いたいというくらいですが、生憎この身では叶わぬ願いでして、それ以外となると最早検討すらつかぬ有り様。私には他の方々のように憑いて回る相手もおりませんで、さてどうしたものかと悩んでいたところです」
 
飽くまで世間話や冗談の一つでも語るかのような口調で、笑みさえ浮かべながら頭を掻いて見せるヘイハチであるが、名前の表情は優れない。おどけて見せれば見せるほど、その姿は痛々しく映るのだ。
 
「お寂しくは御座いませんか……?」
 
口を衝いて出てしまった娘の言葉に、ヘイハチは一瞬身を固くし、そして困ったように弱々しく微笑む。
 
「これは恐らく罰なのです。私が殺めた者達が、極楽からも地獄からも、私の事を締め出してしまったのでしょう」
「それは……それは、あまりにも酷というもの……」
「良いんですよ。こうして自らが守り抜いた米が無事実りゆく様を見守るというのも、真に米の守り神となったようで、実は少々気分が良いのです。それに、名前殿が私に気付いて下さり、声を掛けて下さった……それだけでも、私は幸福なのでしょう。……だから、こんな私などの為に、泣いたりしないでください。今はその涙を拭えぬ事だけが、口惜しくてなりません」
 
諭すように穏やかな声音と柔らかな笑み。伸ばされた手は娘の頬を滑れども、其処に流れる一筋の滴は地へと吸い込まれ、残るは冷たい跡のみである。もどかしさに眉を下げ、ヘイハチが降ろそうとした手を、名前は良しとしなかった。触れられぬ事を知りながらも、その手を救い取らんと己の手を伸ばす。
 
「ならば、ならば私が、ヘイハチ様を連れて行きます。私が、死するその時までヘイハチ様の導となり、死した後は共にあの世へとお連れしましょう」
「……そのような事、年頃の娘さんが簡単に口にするものではありませんよ」
「いいえ、私は本気です。亡き人のお姿が見えてしまうのも、何かの因果であると思っておりました。きっとこの目はヘイハチ様に御恩をお返しする為にあったのです。野伏せりを討つようお頼みしたのは私達、その業なれば、共に背負うのが道理というもの。……貴方を一人きりになど、させません」
 
名前の両手が包み込むその場所には、形はおろか熱すらも存在しない。然れどヘイハチの手は確かにそこにあった。引き寄せれば容易に抜け出せるというのに、宙へと浮かせたままの手を今も降ろせずにいる。自らの脆弱さを垣間見たヘイハチは最上級の侮蔑を込めてその様を見下ろすも、最早無き筈の胸の内が小さく歓喜の声をあげるように痛むのを感じ、ゆっくりと瞳を閉じた。
 
 
 

まろ(空腹
 
 

 
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