ぼくらの幸福論
荒がった呼吸を整えた時、ハッとなった。忌々しい鬼の始祖、鬼舞辻無惨はこの世からいなくなったのだ。では、もうこの全集中の呼吸を鍛える必要はないのではないか。
「ちょっと、薫。」
「………?」
「何やってんの!ほら、しっかりして。ちゃんと息して。」
愛しい声に名を呼ばれて、その腕の中に閉じ込められる。容赦ない強さで、ペチペチと頬を叩かれた。そして、労わるように背中を撫でられる。
「そう、いい子だね。」
上手に呼吸を整えられた時、優しく頭を撫でられた。
「水、飲めそう?」
「ん…」
こくり、と頷いた。枕元のすぐ傍には、常温の白湯が急須に入れられて置かれている。無一郎は片手で私を抱き抱えて、湯呑みにそれを注いだ。そして、体勢を仰向けの座位へと変えられる。
「はい、」
僅かに口を開けると、少量の水が口の中を潤してくれる。入りきらなかった水が、口角から流れ落ちて、掛け布団に小さな染を作ってしまった。私が慌てて謝罪の言葉を口にすると、無一郎は何も言わずに手拭いで私の口もとを拭った。
「ごめん、起きている間に少しでも水分を摂って欲しくて入れすぎちゃったみたい。」
「、なんで、無一郎が、謝るの。」
1人で水を飲むこともままならない私がいけないのに。そう告げると、一気に無一郎の顔がムッとする。
「無理して喋んないで。医者が言ってたでしょ。自分の体のことは、自分が1番よく分かってるんじゃなかったっけ?」
そう言われた途端、乾いた咳が漏れる。そんな私を一瞥した後、無一郎の顔がゆっくりと近づいてきて、コツン…と額と額が触れ合った。
「うーん、また上がったのかな?なかなか良くならないね…。」
「ご、ごめっ…ん!?」
「ん、、…謝るのなし。」
唇と唇が優しく触れた。あの戦いからもう一月。みんな現実に戸惑いながらも、着実に前を向いて歩んでいこうとしていた。そんな中だと言うのに、私の身体はなかなか思うようにいかない。肺は半分無くなっているようだし、左足も膝から下が欠損している。よくこんな状態で、生きているものだと自分でも思った。
「む、無一郎…」
「ん?」
「ありがとう。こんな私の傍にいてくれて。」
「!、当たり前でしょ。」
改めて思ったのが、無一郎は人の看病をするのが、とても上手だと言うことだ。2週間も眠っていたのに加えて、心身の疲労に加えて、感染症にも罹りやすくなっていた私は、案の定高熱を出しては下がってを繰り返した。医者もずっとは私に付き添えないので、私の世話は全て無一郎が焼いてくれている。
「薫は何も気にしなくて良いんだよ。大丈夫、僕が守るから。」
「無一郎…」
「元気になったら、何処か旅にでも出ようか?兄さんたちのところへ行った時、退屈させないために、色々なものを見ておきたいね。」
鬼がいる世界では考えられなかったこと。全ての鬼を滅するために生きてきた私たち。それが終わった今、もう良いんじゃないか。私たちは、私たちのために、残された時間を生きる。
「後、10年くらいだよね。」
炭治郎くんや私たちは。ぽつり、と呟いた。だけど、不死川さんや冨岡さんはもっと短くて、後数年。
「薫。痣者になった人を助ける術を探すんじゃなかったの?」
「………、」
「君の諦めの悪さは、誰よりも分かってるつもりだったんだけどね。………人はいつか死ぬよ。だから、尊いんだって昔、煉獄さんが言ってた。それに、例えその時がみんなより早く訪れたとしても、それを選んだのは僕たちだから。本望なんだよ。」
思い浮かぶのは、戦いで先に逝ってしまった人たちの優しい顔。残った私たちが、それを継承していかなければならないのかもしれない。
「怖いの?」
「ううん、」
死ぬことは怖くない。それは、今まで生きてきた中で、ずっと常々思っていたことだ。だけど、時々思ってしまう。もっと、私が強ければ。もっと、私に知識があればって。
「鬼滅隊は解散した。鬼はいなくなった。もうそれだけで十分でしょ。犠牲の数を数えて嘆いていたら、きっと怒られちゃうよ。」
いろんな思いを抱えて、目頭が熱くなっていく。そんな私の頬を無一郎の両手が包み込んだ。
「薫は、いつも人のことを考えすぎ。胃に穴が開きそう…。」
「ええっ!?そこまで柔じゃないよ!」
「…知ってるけど、」
ふに、と鼻を摘まれる。痛い、と抗議するように睨みつけてやれば、ふふっと笑われた。
「もう、何、無一郎…」
「変な顔と思って。」
「な、!けほけほっ、」
「ほら、もう横になるよ。」
急に大きな声を出したせいか、唾液が気管に入り込んで咽せてしまう。無一郎は慣れた手つきで私を再び横にさせた後、一緒にその中へと潜り込んできた。そして、私の頭をその腕へと乗せられる。ああ、温かいなと思った。
「苦しくない?」
「うん、大丈夫。無一郎は身体はもう平気?」
「おかげさまで。だから、今は、自分を治すことだけ考えてなよ。」
「はい…。」
「薫、僕はね、今とても幸せなんだ。」
襖から漏れる光が、私たちを照らしていく。私の大好きな笑顔を、私だけに向けてくれる今が、私もとても尊くて、幸せだと思った。
「、けほっ」
「早く良くなって、お出かけしようね。今までできなかったこと、してあげたかったこと、これから全部してあげるから。」
「無一郎、」
背中に腕が回ってきて、優しくポンポンと叩かれた。
「大好きだよ、薫」
私はその言葉に応えるように、彼の背中に腕を回した。私も、無一郎にしてあげられなかったことをしてあげたい。生い先が短いと分かっているからこそだろうか、この一瞬のひと時までもが愛おしいと思う。そして、彼と一緒なら、何をするのもどこへ行くのも退屈なんかしない。無一郎と一緒にいる、きっとそれだけで満たされて幸せなんだと、確信していた。
元気になった私たちが、逢引するのは、また別のお話で。ありがとう、大好きだよ。
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